「パイドロス」/プラトン 岩波文庫

ソクラテス「はたして自分は、テュポンよりもさらに複雑怪奇でさらに傲慢凶暴な一匹のけだものなのか、それとも、もっと穏和で単純な生き物であって、いくらかでも神に似たところのある、テュポンとは反対の性質を生まれつき分け与えられているのか、とね。」

まことに、この天のかなたの領域に位置を占めるもの、それは、真の意味においてあるところの存在――色なく、形なく、触れることもできず、ただ、魂のみちびき手である知性のみが観ることのできる、かの≪実有≫である。真実なる知識とはみな、この≪実有≫についての知識なのだ。されば、もともと神の精神は――そして、自己に本来適した物を摂取しようと心がけるかぎりのすべての魂においてもこのことは同じであるが――けがれなき智とけがれなき知識とによてはぐくまれるものであるから、いま久方ぶりに真実性を目にしてよろこびに満ち、天球の運動がひとまわりして、もとのところまで運ばれるその間、もろもろの真なるものを観照し、それによってはぐくまれ、幸福を感じる。ひとめぐりする道すがら、魂が観得するものは、≪正義≫そのものであり、≪節制≫であり、≪知識≫である。この≪知識≫とは、生々流転するような性格をもつ知識ではなく、また、いまわれわれがふつうあると呼んでいる事物の中にあって、その事物があれこれと異なるにつれて異なった知識となるごとき知識でもない。まさにこれこそほんとうに意味であるものだという、そういう真実在の中にある知識なのである。

――狂気という。しかり、人がこの世の美を見て、真実の美を想起し、翼を生じ、翔け上がろうと欲して羽ばたきするけれども、それができずに、鳥のように上の方を眺めやって、下界のことをなおざりにするとき、狂気であるとの非難を受けるのだから。……この狂気こそは、すべての神がかりの状態のなかで、みずから狂う者にとっても、この狂気とともにあずかる者にとても、もっとも善きものであり、またもっとも善きものから由来するものである、そして、美しき人たちを恋慕う者がその人は「恋する人」(エラステース)と呼ばれるのだ、と。

まことに、運命のさだめは、悪しき者が悪しき者と真の友となることも、さらに、善き人が善き人と友にならずにいることも、けっして許さない

話というものは、すべてどのような話でも、ちょうど一つの生きもののように、それ自身で独立に自分の一つの身体を持ったものとして組み立てられていなければならない。したがって、頭が欠けていてもいけないし、足が欠けていてもいけない。ちゃんと真ん中も端もあって、それらがお互いどうし、また全体との関係において、ぴったり適合して書かれていなければならないのだ。

個人と社会 / オルテガ・イ・ガセット

自分たちが生きていることに初めて気づいたときにはすでに、われわれは他者と共に、そして他者の真ん中にいるばかりでなく、他者になじんでいるからである。そしてこの事実は、われわれに次のような最初の社会的公理teorema socialの定式化をゆるす。すなわち人間は生まれながらにして a nativitate 他者に、見なれぬ存在者に開かれたものである。
つまり、a nativitate他者に、自分とは異なる物alterに開かれている人間は、a nativitate、好むと好まざるとに関わらず、好悪の別なく、利他主義者なのだ。

孤独の中で人間は自己に真実である。

哲学とはひきこもりanabasisであり、自分自身に向かって自己を容赦なくさらけだすことによって、自分自身の収支決算をすることである。他人の前では、われわれは完全に裸でないし、また裸でいることもできない。つまりもし他人がわれわれを見ているならば、その他人のまなざしはすでにわれわれの眼からわれわれ自身を覆ってしまうのである。

つまり哲学はシェンシア(科学)ではなく、インデセンシア(不謹慎なこと)である。というのは、それは物や自分自身をまったくの裸に、一糸まとわぬ姿――物や私の純粋の姿――にすることだからである。厳密に言うなら(sensu stricto)諸科学は決して純粋な認識ではなく、単に物を巧妙にあやつり利用するための実利的技術にすぎない。しかしながら哲学は、物についての恐ろしくも孤独な、そして寂しい真理である。

神の現存は本質的不在より成り立っている。神はまさに不在者として現前するもの、あらゆる現前の中で光輝く――その不在によって輝く――巨大な不在者であり、神を証人として召喚するときの神の役割は、物とわれわれとのあいだに、それら物を覆ったりぼかしたり、あるいは他のものに見せかけたり隠したりする何ものも、また何人も介在しないように、われわれを物の現実の中にひとりとり残すことである。そして物とわれわれとのあいだに何もないということ、これこそが真理なのだ。

行動はそれに先立つところの観想によて律せられていないならば不可能で有り、またその反対に、自己沈潜は未来の行動を立案する以外のなにものでもないのである。

叫び声があがるところに良き認識はないDove si grida non e vera scienza ダヴィンチ

だれでも

「社会」という実在は、その根からして肯定的な意味と同時に否定的な意味を帯びているのである。

全て他の人間存在はわれわれにとって危険である。

デュオニソスは生まれ落ちてまもなく、船乗りも水先案内もいない船に乗せられて、東洋から辿り着いたことになっている。

具体的自我は、なんじたちの後に、そして彼らの中にもうひとりの汝として生まれるのだ。それは根本実在並びに根本的孤独としての生の中ではなく、共存という第二の実在の局面に生まれるのである。

われわれは、この世に生をうけて以来、慣習という大海の中に沈められて生きているのであり、そしてこれら慣習はわれわれの見いだす最初の、そしてもっとも強力な実在であると言うことができる。すなわち慣習は厳密な意味でsensu stricto われわれの社会的環境もしくは世界であり、われわれがこの中に生きるところの社会なのだ。われわれはこうした社会的世界あるいは慣習を通して、人間および事物の世界を、宇宙を見るのである。

慣習というものは、きわめて個性的(ペルソナル)な人間が、つねに古風で、乗りこえられたもの、古くさくすでに意味を失ったものとして感じる生の形式である。

愛は多弁で、小鳥のさえずりのようなものだ。愛は雄弁である。だからもし恋する者が、物言わぬとき、それはそれ以外に方法がないからであり、異常なほど口べただからである。

人間は社会的であると同時に、本来また非社会的であり、彼の中には意識的であれ無意識的であれ、つねに社会からの逃避に対する強い衝動がある。

言語活動の起源を明らかにするためには動物学的功利主義では不十分である。
外部に有り外部に起こるあるものと結びつけられているしるし、そしてわれわれが知覚することのできるしるしだけでは十分でハンク、彼らひとりひとりの中に、彼自身の「内部」でひそかにわき返っているもの――幻想的内部世界――を他の者に示したいという押さえがたい必要性、告白したいという叙情的必要性を推定することが必要なのである。だが内部世界のことはとらえることができないものなので、「それらを示す」だけでは足りない。単なるしるしは表現に、すなわちそれ自身の中に意味、意義をかかえている一つのしるしに変わらなければならなかったのだ。「そこに」、すなわち周囲にないことについて「言うべきことをたくさん持っている」動物だけが、信号のレパートリイだけでは満足できず、そうしたレパートリーが示す限界にぶつかるのである。そしてそうした衝突が彼に限界を超えさせる。奇妙なことには、言語活動の「工夫」を余儀なくすると思われるそうした不十分な伝達の手段との衝突が、言語活動の中で永続し、絶え間のない一連の小さな創造において働き続けるということである。それはその内心に起こった新しいこと、そして他の者たちが見ていない新しいことを述べようと望む個としての人間と、すでにできあがった言語とのあいだの絶え間のない衝突――話すこと(デシール)と語ること(アブラール)のことのあいだの実り豊かな衝突――である。

真の意味で社会的なる者は、個人の上に及ぼされる圧力、強制、命令であり、したがって統治である。

われわれは、少数の指導者層が大衆を不精から引きずり出す試みを繰り返したこともないのに、対数の無気力をせめることができるということが理解できないのである。

慣習や習慣は、われわれの生の大部分において、われわれのしなければならないことをすでに解決済みのものとして与えてくれる。したがってわれわれは、個人的かつ創造的生を他の方向に集中することができる。つまり社会は人間を創造的生に向かって解き放ってくれるのである。

創造と狂気 / フレデリック・グロ

観察のもっとも瞠目すべきものは、文士自身によってなされている。文士たちは自分の細々とした感覚までも書き込む。自分の病的性質を大事にする。それを自らの栄光とし、私たちに示す。自分の思考と感覚の表現という観点からすれば極めて才能に恵まれた彼らはその思考に相応しいやり方で自我を表明する。精神科医はそこから取り出せばいい……。それは解剖された神経症である。Voivenel

感受性の過剰さこそ病気の入り口、直接的原因である。ひとが神経衰弱に陥ったり、強迫観念に取りつかれたり、ペシミストになるのは、脳の出来とか、暗いものへと向かう精神を持つからではない。過敏だからである。ひとつひとつの感覚が苦痛となり、それを分析し、苦い味わいを持つからである。神経衰弱のすべてはこうした感じ方、分析の仕方のうちにある。『医学と現代のペシミズム』

「エミール」の著者は語の本来の意味で狂人であったことは決してない。思い込みによる恐れや疑いに苛まれているとはいえ、精神病院に蝟集する、危険な衝動の虜になった頭のおかしい被害妄想患者とは一線を画す。むしろ、感受性の強い人たちが彼の仲間である。彼らはしばしば偉大な思索家でもあり、生まれながらの痛覚過敏は人生の悲痛事に膨れ上がり、あらゆることに苦痛を覚え、暗い厭世に陥る。たしかに病理学的なものではあるが、決して狂気には至らない。

堅実さのない弱くて軽い魂と脆弱な意志しかもたない変質者は錨をどこに降ろすべきか知らない。よかれ悪しかれ思いつくまま行き当たりばったりにさまよい、抵抗することも出来ず自分自身に引きずられていく。それは一瞬の印象または衝動によって意志が敗北することである。気まぐれによって支配されること……。途方に暮れた精神、舵を失った魂は流されるままに、今は現実性を欠いた理念へと向かい、明日は泥のなかへ向かう。(ibird)

最悪なのは、彼らが「きわめて現実主義的な芸術とは一切共通点のないゴミのような詩」に悦びを見出していることである。そのうえこうした自己満足は自意識過剰の一側面でしかない(「詩人の不幸は過度の虚栄心、自分の外に何も見ようとしない意識過剰なエゴイズムの結果そのものである」)

自分以外に彼らが愛するのは猫だが、これは精神病の明確な徴候のひとつである。
「彼[=詩人]はこの自己中心的で偽善的な動物にあまたの美点を認める。病的なまでに賛美する。この猫への愛情はいささか頭のおかしい詩人たちによく見られる。」 Laurent

神経症の予備軍たちは悪しき種の思うがままの開花をゆるす見事な土壌である。...神経症や狂人になると、他の狂人の詩句を読んで、自分でも詩を作って楽しむようになる。繊細な倒錯を読め見て、自分が大衆を超越するさまを思い描く。かくして完全な病気になり、牢獄で人生を終える。

私たちのおかげで、下手な詩を唸ったり、つまらぬコラムを書いたりしていた人間が、どうにかこうにか毎朝事務所に通い始め、結婚し、子どもをもうけた。たぶん、自分の子はサラリーマンか商売人にするだろう。


狂気とは精神面の過剰活動である。...この過剰活動を弱め、凝集力を崩すことで、ひとは理性を取り戻すことができる。人間にその自己力(セルフパワー)を返すことができる。引き算で修正することが肝要であり、妄想から理性へと戻すのに足し算は必要ない。モロー・ド・トゥール


<天才とは狂人である>...私がこんなばかげたことを言ったと思われている...そんなことはない、天才はまさに天才であり、狂人はまさに狂人である。これはまるで違うことだ。私が言ったのは、天才と狂人は同じ器質的起源を持っているということなのだ。
天才と狂人はひとつの幹から出る。遺伝によって体質のうちにあったり、先天的法則によって完全に作られた「同じ器質的条件を伴っている」。それらの条件は個人のその後の展開によってさまざまに変容するが、トキに狭義の神経症、また時に知的突出を、ある者には痴愚や狂気、またある者には非凡な知的・精神的能力といったものをもたらす。そしてほんの少数の者のうちに知的ダイナミズムの最高度の表現、すなわち天才をもたらす。

狂気はあらゆるものが変貌する混沌とした時間における一個の主体の、自己と他者に対する異質性である。逆に天才は同一者の永続性となろう。私たちは天才が創り出す作品が自立、永続し、のちの成功が頑固なまでの趣味に栄冠をもらたらし、その早すぎた仕事を正当化することを知っている。




彼らの人生の始まりには全面的な不調和の刻印がされている。早熟な子どもだが、性格障害があり、才能にあふれる青年だが、神経症である。
「彼らは少年時代からその早熟さと、すべてを理解し把握する能力によって目立っている。しかし同時にその気まぐれ、頑固さ、本能的な残酷さ、激しく痙攣的な怒りの発作が目につく。思春期には頭痛やさまざまな神経症の疾患を訴えることが多い。同時に興奮や欝の一時的発作もある。さらに情念に捕らわれた心的傾向の極端なものもある(神秘主義、自慰、漠とした性的願望、旅行熱、偉業の追及など)」
大人になると精神の不安定さは増大し、魅惑的で、独特、エキセントリックで、人を惹きつけるが、危険なパーソナリティが生まれる。さらに創造的だが、欠陥がある。これらの点は以下のようにレジス教授の『精神医学要諦』に明言されている。後にアンドレ・ブルトンが丁寧に書き写すくだりである。
「大人になった彼らは、複合的で、異質の要素からなる存在、バランスを欠いた要素、正反対の美質と欠点からなる存在である。
さらにある側面では才能に恵まれているが他の側面では不十分である。知性の面では、時として極めて高い想像力、構想力、表現力を有す。つまり言葉、芸術、詩の才がある。程度の差はあれ、彼らに欠けているのは、判断力、生真面目さ、とくに持続力、論理力であり、知的な生産活動と人生の行為における一貫性である。このためその往々にしてすばらしい資質にもかかわらず、彼らは理性的な仕方では行動できず、ひとつの職業を継続的に勤めることができない。それは彼らの能力を超えているように思える。自分と家族の利害を守ることが出来ず、商売を切盛りし、子どもの教育をみることができない」

変質者は偉大な学者になりうる。優れた芸術家にも、有能な官僚にもなりうる。しかし同時に精神面での欠落や奇妙な行動を示すことになろう。その輝かしい能力を立派なことにも使うが、最低の悪癖を満足させるためにも使う。

ソクラテスは光感覚異常だった。彼は苦もなく太陽をじっと見続けることができた。恍惚、忘我状態に入りやすかった。

「イエスキリストは言った。あなたがたは私が地に平和をもたらすためにきたと思っているだろう。そうではない。私は剣を地に投じるためにきたのだ。

ユダヤ人は他の民族の四倍、ないし六倍の静止に乗車を出している ロンブローゾ

「女性の利発さはつねに何らかの器官の異常に結びついている。これらの異常のうち一番多いのはおそらく男性的顔立ちだろう」ロンブローゾ

ある曖昧さが現れ、やがて強まっていく。狂気を天才と重ねる大胆な方程式は、同時に進歩そのものの原因となる。狂気の天才の崇高な活動によって世の出来事はなりたっているというのだ。
「狂人の熱狂的で不動の確信と天才の計算尽くされた技とをひとつにするなら、いつの時代においても鈍い大衆をこの怪物によって焚きつけ、彼らを蜂起へと導くこともできよう」


神秘主義者、とりわけエゴチストと猥褻な偽レアリストは社会にとって最低の敵である。社会には彼らから身を守る最低限の権利がある。社会とは人類だけが行き、繁栄し、より高い地点へと進歩することのできる自然で有機的な形式であることに同意してくれる人々よ、文明を価値あるプラスなもの、守る価値のあるものと考える人々よ、反社会的害虫を容赦なく足で踏みつけようではないか。ニーチェのように「自由に徘徊する享楽的な肉食獣」に熱狂している人にはこう言おう。「文明の外に出て行け。私たちから離れて、さ迷えばよい。できるものなら自分で道を平らにして、小屋を建て、服を着て、自らを養えばいい。私たちの通りも家もお前のために作られたのではない。私たちの畑はお前のために耕されたのではない。私たちの仕事の一切は、互いに尊重し合い、互いに敬意を払い、相互に助け合い、全体の利益のためにエゴイズムを押さえる人たちによってなされたのである。ここには享楽的な肉食獣のための場所は一切ない。もしお前が私たちのところにもぐりこもうとするなら、棍棒で殴られて気を失うことになろう」。 Ibird, t. II, p.550-561


「ある種の精神にとっては一粒の小さな狂気のほうが、わずかな貴族の血にまさるだろう。半狂人がいなくなったあかつきには文明社会は滅びるであろう。溢れる知恵によってではなく、溢れる凡庸さによってである。これは掛け値なしに断言できる」キュレール

キュレールにとって、天才と狂気は、完成した文明と、媒介物の増殖が創り出したものである。罰を受けずにはおれないのだ。未開文明に天才はいないが、狂気もない。キュレールにとって天才と狂気は「歴史の操作手(オペレーター)」である。

フルリィ博士の考察「小説家の典型的な一日」
八時半に起床。医学的に制御されたぬるめのシャワー。九時に朝食(卵二個)。九時半から十二時半まで、執筆の仕事。昼食(白身の肉と焼いたパン)。半時間、軽い記事を読みながら、喋ることなく横になる。ズボンはウェストのゆったりしたもので、サスペンダーを使う。葉巻は三分の一本。そのあと四時まで散歩。六時まで読書。外で食事。ほどほどの娯楽鑑賞。零時に就寝。


癲癇者「ヘラクレス、アイアス、エンペドクレス、ソクラテス、カエサル、聖パウロ、ムハンマド、ルター、パラケルスス、ニュートン、シラー、ヘンデル、そしてフローベール」

『夜の一時の幻』のなかでノディエは書いている。「人々が狂人と呼ぶ不幸なものよ、はたして、この一般に欠陥とみなされているものが、いっそう強力な感受性、いっそう完全な頭脳の兆候でないとだれが言えよう。自然は、きみの能力を高揚させたあげくに、未知なるものを見抜く能力を与えてくれたのではないだろうか。」

強い知的活動を行う患者たちが、他の者異常に精神的トラブルに陥る危険があることは、疑いえない。だが私たちはこの問題をまったく別の側面から扱うつもりである。つまり芸術家がどの程度狂人になりうるかではなく、明白な狂気に芸術的表現が伴うのはどの範囲でなのかが研究課題である...病に冒された患者は、一時的とはいえ、自己を超越するが、その後、治ると再び凡庸さに落ち込む...狂気がときに創造的活動の開花を促すことは明白である。レジャ

結局のところ、狂人の悲惨な作品以上に、俊作から遠いものはない。その違いは赤子と成人の違いである。それでもやはり、狂人の落書き以上に高度に洗練されたアカデミックな絵画に最も近く、最も親しいものは存在しない。それは遠く離れた同一性、密なる距離なのである。つまり狂人の芸術は大芸術の先史なのである。

革命というものは、時間の内部にある一連の構成原理(エコノミー)――さまざまな条件、約束、必然性――に沿ってはじめて組織されるものだ。そしてそれゆえ、革命は歴史のうちに住まい、歴史のうちにみずからの床を作るものなのであり、結局そこに身を横たえるものなのだ。一方、蜂起というものは、時間を断ち切り、地面に対して、そして自らの人間性に対して、人間をまっすぐに立たせるものだ。

デジェネレ 変質者

思想の冒険家たち/森本哲郎

お前の哲学の目的はなにか?それは、ハエにガラスのハエとりつぼから脱出する出口を示してやることだ。ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』

ゲルマンは森の民なのだ。それに対して、地中海世界に住むラテン人たちは、本質的に異なる文化を持つ。オルテガはその違いを、よくいわれるように、「暗」と「明」の相違とすることに同意せず、前者を「深層的現実の文化」、後者を「表層的現実の文化」としてとらえようとする。そして、これこそがヨーロッパ文化全体の二つの異なる次元だと考える。それは別言すれば、思索型と感覚型といってもよい。

ジャワーハルラール「恐怖が虚偽と切り離せない道連れであるように、真理と恐れぬことはつきものである。」

「宗教とは存在の断片的な変わりやすい出来事に真正な見通しを与えるあらゆるもの」であり、
「永続的な価値を確信するゆえに、個人的な損失の脅威にも屈せず、ひとつの理想的な目的のためにいかなる障害をも乗り越えようとしてなされる活動は、すべて、その性質において宗教的である」J・デューイ

「起床、電車、会社や工場での四時間、食事、電車、四時間の仕事、食事、睡眠、同じリズムで流れてゆく月、火、水、木、金、土・・・・・・」
「ところがある日、《なぜ》という問いが頭をもたげる。すると、驚きの色に染められたこの倦怠のなかですべてが始まる。《はじまる》これが重大なのだ」
『シーシュポスの神話』カミュ

人間が生まれるということは、全体から個が分離することであり、神から離脱することだからだ。それは、とうぜん苦悩に満ちた生を意味する。したがって、その苦を克服するためには、あらためて、もういちど全体へ復帰しなければならない。すなわち、個体を止揚して、全体を受け入れるほどに魂をひろげるべきなのだ。仏陀が歩んだのは、その道だった、と彼(ヘッセ)はいう。

青春とはひたすらアイデンティティを求める時期である(エリクソン)

「失われた世代だって。それはいったい、どういう世代のことなのか。どんな世代でも何かによって何かを失った世代ではないか。これまでもずっとそうだったし、これからもずっとそうだろう――と彼は考えた。いい加減なレッテルを貼られるのは真っ平だ」『移動祝祭日』ヘミングウェイ

「人は人間の働きをしてみて、はじめて人間の苦悩を知る」テグジュペリ

「いいか――この世で最も強い人間とは、ただ独りで立つ者である」
「真理と自由とのもっとも危険な敵は、かの堅実なる多数、よいか、この呪うべき、堅実なる、ぐうたらな多数である。……多数が正義を有することは決してない。断じてないのだ!これこそあまねく瀰漫した社会的虚偽の一つであって、これに対しては一箇の自由な思考する人間は反逆せざるをえないのである。……正義とはつねに少数の所有するところのものなのだ」『民衆の敵』イプセン

「文明は文化の不可避的な運命である。……文明とは人間が特有な仕方でつくりだす外的な人工的な状態であり、それはひとつの終末にほかならない。文明とは生成が到達する仕上がったものであり、生のあとにくる死であり、発育がもたらす凝固であり、またドリス様式とゴシック様式が示しているように、若々しい魂の幼年期がやがて迎える知的老年期であり、田園がついにたどりつく石でかためられた世界都市である。」シュペングラー

創作とは何か。それは障害を独房に監禁された囚人が、おなじ境遇の囚人にむかって、自己の監房から呼びかける悲鳴だ。テネシー・ウィリアムズ


ブルクハルトは古代ギリシャにその自由と中庸を見たのである。ただ見たのではない。ブルクハルトはそれをそのまま実践し、享楽的な生活も、政治的な野望も、いっさい投げ捨てて、アタラクシア(こころの平安)の道を選んだ。彼は一生独身で通し、また精神の自由を束縛するようなどんな職務にもつかなかった。

より美しい世界を求める願いは、いつの時代にも、遠い目標を目指して三つの道を見出してきた。第一の満ちは俗世を放棄し、美しい世界はただ彼岸にあると信じて、その神の国へ至ろうとする道である。それに対して第二の道は現実の世界を改良し、完成させることをめざす道であり、人々がこの道のあることに気づいたのは、ようやく十八世紀に入ってからのことだった。第三の道とは、夢見る道、すなわち現実の生活の形を、美しい「芸術の形に作りかえる」というそのような道である。それは、「芸術作品のなかに、美の道が表現されるというだけのことではなく、生活そのものを、美をもって高め、社会そのものを、遊びとかたちで満たそうとする」生き方。

ホイジンガ『中世の秋』

仙台の医学専門学校に留学中、講義の合間に見せられたニュース映画が魯迅にとって作家の道を選ぶきっかけとなった。日露戦争のニュースを撮した画面のなかに、ロシア軍のスパイを働いたかどで処刑される一人の中国人を取り囲んで、まるでお祭り騒ぎのように見物の人垣をつくっているのもまた中国人たちなのであった。そのフィルムを見せられるや、魯迅は「この学年が終わらぬうちに」学校を中退して東京へ出てしまう。彼はこう記している。
「あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切なことでない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料と、その見物人になるだけではないか。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまでいえぬのだ。されば、われわれの最初になすべき任務は、彼らの精神を改造するにある。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むしろ文芸が第一だった。」魯迅


我々の生きるのは生によってなのであって、機械や理想によってではない。そして生とは我々衷心のレアリティである生きた自発的の魂にほかならぬのだ。自発的な、生きた、個体の魂、これこそ生の鍵なのであり、これ以外にかぎはないのだ。自余はすべて派生的なものである。『無意識の幻想』ロレンス

西田幾多郎は谷崎潤一郎の「春琴抄」を読んで、「何しろ人生いかに生くべきかに触れていないからね」と一言言ったとか。

思想と体験を欠き、社会性を自覚せずして小説を書こうとする以上、作家は自己の私生活を語るよりほかなくなり、私小説が生まれる。しかしその作家の個我は、社会と対決せんとするていの強烈なものではもとよりなく、したがって人生いかに生くべくかのごとき問題性を含まぬのであるから、これを作品として成立せしめるためには、「この一筋」に生きて自己をいよいよ狭め、その圧縮凝固作用から発する一種の美的エネルギーを利し、これを文章の技巧によって飾る以外に道はなくなる……。「日本現代小説の弱点」桑原武夫

芸術起業論 / 村上隆

日本の美術の授業は、ただ「自由に作りなさい」と教えますが、この方針にしても、欧米の現代美術の世界で勝ち抜くためには害になりかねません。自分勝手な自由からは無責任な作品しか生まれません。

欧米では芸術にいわゆる日本的な、曖昧な「色がきれい……」的な感動は求められていません。

芸術は、想像力をふくらませる商売である

価値観の違うひとにも話しかけなければ、未来は何も変わらない。こういう世界共通の当然の話が、若いアーティストの頭から抜けている。自分の狭い世界だけでものを考えて作品をつくだけではいつかつじつまが合わなくなります。

アートというのは贅沢な娯楽です。作品制作では厳しすぎるほどの眼を持つべきです。すべての細部にこだわり、真に魂の入った作品にしあげてゆくべきですが、これはマネジメントにおいても同様です。

心の状況を整備し、心の本音を探索し、心の扉を開け放つ……。そういうリスクの高い行為をしているのが芸術家です。

なぜ、芸術作品には高い値段がつくのでしょうか。なぜ、芸術家は尊敬されているのでしょうか。理由は簡単です。すばらしい芸術はジャンルを超えて思想にも革命を起こすからです。

日本では「魂の叫び」みたいなグネグネした作品をただ独りで作ることこそが芸術と思い込まれているのですけど、ほとんどの時代の芸術はそうではないのです。

日本の異端は欧米の評価を受ける。日本の本道は欧米の評価を受けない。現代に通じるこの流れを日本人は意識すべきです。



作品を意味づけるために芸術の世界でやることは、決まっています。「世界で唯一の自分を発見し、その確信を歴史と相対化させつつ、発表すること」これだけです。

芸術は「強烈な独創」が基準点で、前人未踏の新しさを世界に提案できるかどうかの勝負だから「唯一の自分」の発見は欠かせません。

芸術家がいいものを作るための近道は、偶然の幸運をいかに自分の手の中に掴むか

芸術家は自由な存在と思われがちですがそれは錯覚です。芸術家の自由はほとんど死後に限定されています。

表現の世界では、みんなが、実現不可能なことに夢をはせては挑戦を続けています。()ぎりぎりまでやらないと、ものが見えてこない世界。集中力と体力がきれたら、すぐに死ぬしかない世界。でも、この世界に入った以上、みんなが望んでいるものはその「実現不可能なもの」なのだから、なんでそこに突っ込んでいかないんだよと思うのです。


「若いこと、貧乏であること、無名であることは、創造的な仕事をする三つの条件だ、と言ったのは毛沢東です」宮崎駿

イヤなことを言われて心がズタズタに傷つくときはかならず来るんです。そこでみんなが挫折を味わう。だけどそこからもう一度戻ってこられるかどうかが勝負なんですよね。


(フランスの)日本を見る目がいまだに極度のオリエンタリズムの色眼鏡のままだった






「禅とオートバイ修理技術」ロバート・パーシグ

おそらく私たちは、本当の生活は都会のなかにあり、いま目にしているこのすべては単なる田舎の退屈な風景にすぎない、と思い込んでいたようである。おかしな話である。真理がやってきて扉を叩くと、「あっちへ行け、私は真理を求めているのだ」と人は言う。だから真理は立ち去ってしまう。不思議なことだ。

科学の神殿のなかにはたくさんの住まいがある……そしてそのなかに済む人びとも、彼らをそこへ導いてきた同期も、まことに種々雑多である。()主の御使いにの意に適った人びとは……一風変わった、人と打ち解けない、孤独な人間である。追い払われた大勢の連中に比べれば実際、残った人びとのほうがそれぞれかなり個性的である。

彼らを科学の神殿へと向かわせたものはいったい何か……それは日常生活からの逃避、痛ましいほど不完全で、絶望的なほど単調なこの生活からの逃避であったろう。そして自己のうつろいやすい欲望の足かせから解放されることであった。繊細な気質を持った人ならば、この世界の騒々しさと束縛から離れて、鉱山の静寂のなかへ逃れたいと憧れる。そこへ昇れば、眼差しはしんとして澄み渡る大気の中を字油に漂い、一見永遠にわたって築き上げられたかのように見えるもの静かな山々の輪郭を、心をこめて辿ることができるのである。

もし人間の知識のすべてが巨大なヒエラルキーを構成しているとすれば、精神の高地は、最も一般的かつ抽象的な考察において、その最上部に位置している。
しかしここに足を踏み入れる人はほとんどいない。そうしたところで何の実益もえられないからである。だがここには、この物質世界同様、それ特有の厳粛な美がある。ここを旅する人にとってその辛苦が報われるのは、この美あればこそなのだ。

完全な確信を持っていることに身を捧げる人は決していない。明日もきっと太陽が昇ると熱狂的に騒ぎ立てる人はいないはずである。……政治的あるいは宗教的心情に、そしてまたそのほかの教義や目的に熱狂的に身を捧げるのは、耐えずそれらに疑問を抱いているからなのである。

芸術と工芸とを分離するのはまったく不自然なことだ……遠い昔のことだが、回転肉焼き器の組み立て方だって、実際は彫刻の一部分だったのさ。

現代の理性は、地球が平らだと考えていた中世期の理性と大して変わりがない、と私は思っている。理性を超越してしまうと、向こうの世界、つまり狂気の世界に落ち込んでしまうと思っている。そしてだれもがそれを非常に怖れている。この狂気に対する恐怖は、かつて人びとが抱いた地球の端から落ちてしまうという恐怖に勝るとも劣らない。

目標に至る精神の軌跡を自然の山に譬えることは、ごく自然な試みかもしれない。しかしほとんどの人は、この渓谷に住んでいる人たちのように、その山を目前にしながらみずからは決して足を踏み入れようとしない。ただ、かつて底を歩いた人たちの話に満足げに耳を傾けている。彼らはこうして身にかかる苦難を避けているのだ。なかには熟達したガイドに伴われて山に入り、目的地に到達する人もいる。また何の経験もないのに闇雲に自分の道を切り開こうとする者もいる。だがこうした人のほとんどは目的地を前に挫折してしまう。しかし希には、純然たる意志と、運と、神の恩寵によってその目的を成就する者がいる。いったん頂を極めれば、そこに至る道は限りなく見えてくる。


あるクラスの授業で、学生全員に丸々一時間を費やして自分の親指の甲について書かせた。最初はどの学生も妙な顔で見ていたが、「何も書くことがない」と文句を言う者は誰一人なく、みなそれぞれにペンを走らせた。……いったん自分本来の目で者を見るこつを把握してしまえば、その表現には限りがない。

模倣は絶対悪である。


「目標を意識せずにひたすら昇っている人が、。最も高いところにいる」クロムウェル

実在論:「ある事物がなければ世界が正常に機能しないとすれば、それは確かに存在する」

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな……三位一体」モンタナ州立大学の廊下や大講堂の階段を歩きながら、ひとり静かに、声をひそめてパイドロスはこう口ずさんでいた。

芸術とは高いクオリティを求め尽くすことである。
もっと仰々しい言い方をすれば、「芸術とは、人間の創造物に顕示される神性である」とも表現できる。

事実は一般的であればあるほど、それだけいっそう貴重である。

何を書こうかと迷って立ち往生してしまうのはごく普通のことだ。一度にたくさんんおことをしようとすれば、だいたい行き詰まってしまうものだ。肝心なことは、無理に言葉を引き出そうとしないことだ。

心の落ち着きは、技術的作業にとって決して表面的なものではない。これこそが重要なのである。心の落ち着きを生みだす物は、優れた仕事であり、それを破壊する者は、悪い仕事である。()心の落ち着きこそが例の≪クオリティ≫を知覚するための前提条件だからである。()良いと思われるものを見抜いて、その理由を理解し、作業のなかでこの良さと一体になることが、内なる安らぎ、つまり心の落ち着きを培い、ついにはその良さを輝き出させるのである。

覇気というこの言葉が≪クオリティ≫に通じた人の状態を的確に表現していることである。古代ギリシャ人はこれを「エンスージアスモス」と呼んだが、それは文字通り「テオス」、つまり「神に満たされた」という意味である。()
覇気満々の人びとは、無為無策のまま、放埒をきわめたり、物事に気をもんだりはしない。自己認識という列車の前面にいて、常に軌道の先を見据えて、何がきてもそれを真っ向から受けとめる。それが覇気である。

たとえば、コンピューター回路の電圧は、「1」か「ゼロ」しか示さないと繰り返し言われてきたが、そんなバカげた話があるものか!()電源を切ったとき、電圧が「1」を示しているか、それとも「ゼロ」を示しているか、よくみてみるがいい!回路は「無」の状態にある。1でもなければ、ゼロでもない。

イギリスの哲学者ホワイトヘッド「あらゆる哲学はプラトンの脚注にすぎない」

これまこの世界に損害をもたらしてきた一台原因は古代の人びとの思想を無意識に受け入れてきたことにある、と断じた者が誰一人いなかったことである。

……この景色のすべてがこれほど愛しく思えるのに、どうして私が狂気でありえようか?……
……そんなことが信じられるものか!
神話。これこそが狂気なのだ。パイドロスはこう信じていた。神話は、この世界に形式は実在しても、≪クオリティ≫は実在しないと説く。これこそが狂気でなくて何であろうか!だからパイドロスは、アリストテレスと古代ギリシャ人達こそが極悪人だと思ったのだ。何しろこんな奇形の神話を形成しておきながら、これを――この狂気を――真の実在だと思わせようとしたのだから。

コールリッジ「人はみなプラトン主義者かアリストテレス主義者のいずれかである」


形式と型にはまった表現は、優れた人間が最も嫌い、出来の悪い人間が最も好む者である。


「書くことについて」スティーヴン・キング

ひとつここではっきりさせておこう。小説に関するかぎり、アイデアの集積所も、ストーリーの中央駅も、埋もれたベストセラーの島も存在しない。いいアイデアは、文字通りどこからともなくわいてくる。(中略)われわれがしなければならないのは、そういったものを見つけ出すことではない。そういったものがふと目の前に現れたときに、それに気づくことである。

小説家でも詩人でも、作品が世に出れば、いつもかならず才能の浪費だと批判されるものだ

いい文章というのは、ひとを酔わせると同時に思案にふけらせる

死を書く行為は、神話的な啓示の瞬間と同様、床掃除とも多くの共通点を持っている

ヘミングウェイやフィッツジェラルドが酒を飲んだのは、想像力に富んでいたからでもなければ、阻害されていたからでも、精神的に弱かったからでもない。アル中というのは、飲むようにできているのである。

ものを書くときの動機は人さまざまで、それは焦燥でも良いし、興奮でも希望でもいい。あるいは、心のうちにあるもののすべてを表白することはできないという絶望的な思いであってもいい(中略)動機は問わない。だが、いい加減な気持ちで書くことだけは許されない。繰り返す。いい加減な気持ちで原稿用紙に向かってはならない。

”ウィリアム・ストランクの見るところ、たいていの場合、読者はトラブルに見舞われている。なかには、沼でもがいている者もいる。書き手の務めは、早く泥の水を抜いて、彼を助け出すことである。それが無理なら、せめてロープを投げるくらいのことはしなければならない。”『英語文章ルールブック』

副詞は臆病な作家が好んで使う。
地獄への道は副詞で舗装されていると、私はビルの屋上から叫びたい。

作家になりたいのなら、絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み、たくさん書くことだ。私の知る限り、そのかわりになるものはないし、近道もない。

読書は作家の創作活動の中心にある。

仕事場に入るときは、その日の目標を決めておいた方がいい。

創作活動はウイジャ・ボードの占いでもないし、霊媒の口寄せでもない。配管工事や長距離トラックの運転と同じ肉体労働だ。

なんらかの問題意識やテーマにもとづいて書くというのは、駄作のレシピである。

最愛のものを殺せ。たとえ物書きとしての自尊心が傷ついたとしても、駄目なものは駄目なのだ。

公式――二次稿=一次稿マイナス10%

私が書くのは悦びのためだ。純粋に楽しいからだ。楽しみですることは、永遠に続けることができる。
私にとって、書くという行為はときに信仰であり、絶望に対する抵抗である。

このブログについて

Evernoteに書いた読書メモをコピペするだけのページ。読書記録、書き抜き帳。何かの役に立てば。