ユング/夢分析論


夢分析の臨床使用の可能性

夢とは抑圧された願望充足に過ぎないとする見方は、とうの昔に時代遅れとなった観点です。……夢は、容赦のない真実や、哲学的な箴言、幻想、奔放なファンタジー、記憶、計画、予期、さらにはテレパシー的なヴィジョンや非合理的な経験、あるいはその他の神のみぞ知るというようなものでさえあります。私たちの生のおおよそ半分は程度の差こそあれ無意識的な状態で過ぎていくということを、忘れてはなりません。夢とは、無意識の特殊な現れなのです。こころには日中の側面、すなわち意識があるのと同じように、夜の側面があります。

無意識とは悪魔のような怪物ではなく、モラル的にも、美的にも、知的にも中立的な自然の性質です。それが本当に危険なものになるのは、無意識に対する私たちの意識的態度がどうしようもないくらい間違っている時だけです。私たちが抑圧しようとすればするほど、無意識の危険性は増していきます。しかし、患者がそれまで無意識であった内容を同化することを始めたその瞬間に、無意識の危険性も減っていくのです。

ご存知の通り、人はよく自分自身の死に関する夢を見ますが、それはたいして問題のあることではありません。死が本当に問題であるならば、夢は別の言語で語ります。


夢心理学概論

カント:理解するということは私たちの意図に対して十分な量を認識するということにほかならない。

(狭い意味でのフロイト学派は)極端な例を挙げれば夢の中の縦長のものはほとんどすべてファルスの象徴であり、丸いものや穴の開いたものはすべて女性器の象徴だと説明するに至ってしまっている。

分別を見失ってしまうほど何かに怒りを感じている時、私たちは自分の怒りの原因が何もかも外側に、すなわち怒りの相手となる物事や誰かの中にあると見なさずにはいられなくなってしまう。つまり私たちは、自分を怒りの状態に、あるいは時と場合によっては睡眠障害や消化不良にも陥らせることのできる力がそうした物事にはある、と信じ込んでしまうのだ。だからこそ恥知らずにも平気な顔をして衝突相手のことを非難するのだが、そうすることで私たちは怒りの対象の中に投影された自分自身の無意識の部分に対して罵詈雑言を浴びせてしまっているのである。
このような投影は無数に存在するが、その一部は好都合なものだ。すなわちリビドーの架け橋として軽減させる作用を持つ。投影の一部は不都合なものだが、実際にはそれが障害として問題となることはない。たいていの場合、不都合な投影は親しい人間関係の輪の外側に住みついているからだ。ただし、神経症患者は例外である。神経症患者は意識的にせよ無意識的にせよ一番身近な環境と強力な関係を持つので、不都合な投影が一番身近な対象に流れ込んでしまうことも、そしてそれによって葛藤を生じさせてしまうことも阻止できないのだ。したがって神経症患者は――治療を臨むのであれば――正常な人がそうするのよりもはるかに高い水準で、自身のプリミティヴな投影を見抜いていかなければならないのである。もちろん、正常な人も同じように投影を行うが、それをよりよく分割している。好都合な投影にとって対象は近くに、不都合な投影にとって対象はずっと遠くにある。

たとえば自分の子どもたちやその他の「魂ある」対象のことを、自分自身の心を扱うのと同じようにして扱うプリミティヴな人々だ。彼らは子どもたちや対象のこころを害するようなことをしてしまうのではないかという不安が原因で、あえて何もしないのである。そのため、子どもたちは思春期に到るまで可能な限り教育されないままでおかれる。そして思春期になると突然、あとになってからの教育が始まるのだ(イニシエーション)。それが残酷なものであることも多い。(後述:イニシエーションの際、若者たちは神、神々、あるいは「始祖」の動物が何を為したのか、世界や人はどのようにして創られたのか、世界の終末はどのようになるのか、市の意味とは何か、などといったことを学んでいく)

モラルという決まり事も、神という概念も、いずれの宗教も、外側から、いわば天から人間のもとに舞い降りてきたものではない。人間はみな自らの核心の部分にそれを持っており、それゆえ自分自身の側からもそれを創造していくのだ。

「精神疾患とは脳の疾患である」というドグマは、1870年代の唯物論の遺物だ。このドグマはどこからも正当な根拠を与えられることのない偏見となり、この偏見こそがあらゆる進歩を妨げているのである。

夢の本質について

無意識は夢だけでなく、心因性症状のマトリクスでもある。……無意識は、私や他の誰かが私の意識的態度を正しいものと感じているかどうかなどということにはまったく気を払うことがないので、無意識がいわば「違う意見を持っている」ということもありうる。無意識がしばしば重大な失錯行為を通じて多種多様の厄介な障害の原因となったり、神経症症状を生み出したりする力を持つものである以上、このことは――特に神経症の事例において――些細な問題ではない。このような障害は「意識的」と「無意識的」の不一致に起因するものなのだ。「正常な状態ならば」この一致が存在していなければならないはずだ。しかし実際にはこの一致は存在しないことの方が非常に多く、これこそが深刻な自己や病気から害のない言い間違いにまで及ぶ心因性の不調が予想以上に多いことの理由なのである。こうした関係について注意が促されるようになったことは、フロイトの功績である。……神経症の治療には「意識的」と「無意識的」との間の調和を再確立に近づけるという課題が存在する。周知の通り、このことは「自然な生き方」に始まり、理性のすすめ、意志の強化、そして「無意識の分析」にまで及ぶ、さまざまな方法でなされうる。


象徴と夢解釈
ブロイアーとフロイトは神経症症状には意味があり、特定の考えを表現するという点では理にかなっている、と見抜いた。別の言葉で言うと、神経症症状は夢と同じ方法で機能するもの、すなわち象徴化するものなのである。たとえばこういったことだ。耐え難い状況に直面している患者が、何かを飲み込もうとするときに必ず痙攣を起こす。「彼はそれを飲み込むことができないのだ」。同じような状況のもとにある別の患者は喘息の発作を起こす。「彼は息苦しい思いをしているのだ」。またある人は両足の奇妙な麻痺に悩まされている。「彼はもうこれ以上勧めないのだ」。さらにまた別の患者は食べたものをすべて吐き出してしまう。「彼はそれを消化できないのだ」。彼らはみなそれと同じような夢を見るかもしれない。


私が東アフリカにおいてプリミティヴな部族のもとでフィールドワークを行っていたとき、驚きをもって発見したのは、彼らが「夢をみることはない」と言うことだった。しかし、辛抱強く遠回しな会話をすることによって、すぐに次のことに気がついた。彼らは他の人々と同じようにちゃんと夢を観ているが、自分の夢には何の意味もないと考えているのである。彼らは言う。「普通の人の夢は何の意味も持たない」。重要な夢は首長や呪術医が見た部族の繁栄に関わる夢だけだった。このような夢はとても大切に扱われる。唯一の問題は、首長も呪術医も「イギリス人たちがこの国にやってきてからは」もう夢を見ていないということだった。地方行政官が「大きな夢」の機能を奪い去ってしまったのである。

無意識的な心が存在するということでさえ、非常に多くの科学者や哲学者によって否定されている。彼らがよく用いるのは、無意識的な心などというものが存在するとすれば、個人の中に一つではなく二つの主体があるということになってしまう、というナイーヴな議論だ。しかし、まさにその通りなのである。パーソナリティは一つのまとまりだと考えられているが、そうではないのだ。……苦境の只中にいるのは、けっして神経症患者だけではないのだ。このことは最近になって発展してきたことでもなければ、キリスト教的なモラルのせいにしてよいものでもない。それは反対に、全人類の遺産である全般的な無意識の兆候なのである。

神経症患者の行動をよく見てみれば、患者が一見したところでは意識的で目的があるかのように見える行為をしていることに気付かされるだろう。しかしそれについて尋ねてみると、驚いたことに患者はその行為についてまったく無意識であるか、あるいはまったく別の捉え方をしているのである。彼は聞いているが、それと同時に聞こえていないのだ。彼は見ているが、それと同時に見えていないのだ。彼は知っているが、それと同時に知らないのだ。こうした多くの観察から専門家たちが確信したのは、無意識的内容とはまるでそれらが意識的内容であるかのように振る舞うものだということ、そしてある思考が、発言が、行為が、意識的なものなのか、それともそうではないのかは、はっきりとはわからない、ということだった。

神経症的な現象とは病理的に誇張された正常な出来事であり、それゆえにそれに相当する正常な出来事以上に明白なものなのである。

たいていの人が考える以上に、無意識のメッセージは重要である。意識はありとあらゆる外的な誘惑や妨害に曝されており、それゆえ簡単に道を逸らされ、その人の個性に見合わないような道を辿るよう唆されてしまう。夢の全般的機能とは、補充的もしくは補償的な内容を産みだすことによって、精神的平衡におけるこうした問題のバランスをとる、ということなのだ。

いみじくもファウストはこう述べている。「はじめに行為ありき」。行為とはけっして発明されたものではなく、なされたものなのだ。一方、思考の方は比較的遅い発見である。思考は発見されたもの、つまり追い求められて発見されたものである。しかし、内省を持たない生は人間よりもはるか以前から存在していた。それは発明されたものではなく、人間が後になってその中で自らを見出したのである。人間はまず無意識的要因によって行為へと駆り立てられ、そしてそれから長い時間が立ってからようやく自らを駆り立ててきた原因について内省をし始めたのだ。自分を駆り立ててきたのは自分自身に違いないなどという奇妙な観念に人間が達するまでには、それから非常に長い年月が必要だった――人間の精神は自分自身以外の動機づけの力を見て取ることができなくなってしまっているのである。植物や動物が自らを発明するなどという考えのことを、私たちは笑い飛ばすはずだ。ところが心や精神がそれ自体を発明し、それ自体に存在を与えたなどと考える人は数多く存在する。実際には、どんぐりがオークの木に育つように、あるいは爬虫類が哺乳類へと進化したのと同じように、精神とは現在のような意識の状態へと成長してきたものなのである。精神とはこれまでそのような存在だったのであり、そして現在でもそれは変わらない。つまり私たちは外側からの力と同じくらい、内側からの力によって駆り立てられているのである。


「意志あるところに道は開ける」というモットーはゲルマン的な偏見であるだけではなく、現代人一般が持つ迷信なのだ。自らの信条を保つために、現代人は際立った内省の欠如を育んでいる。あらゆる合理性と効率性をもってしても、自分のコントロールを超えた力に自らが支配されているという事実に、現代人はまったく気がついていない。神々や悪魔たちはけっして消え去ったわけではなく、新たな名を得ただけなのだ。それは落ち着きの無さ、索漠とした心配、心理的な困惑、薬物、煙草、健康食やその他の健康法への克服しがたい欲求――そしてとりわけ印象的なまでにずらりと並んだ神経症――をもって、現代人を走らせ続けているのである。

マクベス「人生はただ、うろつき回る影法師、あわれな役者。出番のあいだは舞台の上で大見得を切り、がなり立てても、芝居が終わればもう何の音も聞こえぬ。能無しの語る物語。響きと怒りばかりはすさまじいが、意味するところは無だ」

明らかに人間には、自分の生に意味を与え、世界の中に居場所を見出すことを可能にしてくれる、一般的な観念や確信が必要なのである。意味があると確信しているときであれば、途方も無いほどの困難にも耐えられる。しかし、あらゆる不幸に加えて、自分が「能無しの語る物語」の一役を担っていると認めざるをえないとき、人は押しつぶされてしまうものなのだ。

私たちは自然を支配しているなどと自惚れているが、本当は今も変わらず自然の犠牲者なのである。そして私たちは、少しずつ、ただし避けようもない形で破滅を招いている、自分自身の本質natureをコントロールすることさえ学んでいないのだ。

「神はかつての時代には人々の前によくその姿を見せていたのに、なぜ今日では神を見た人がもはやいないのか」ラビいわく、「それほど低く身を屈めて歩む人は、今日では存在しない」

はじめて出会ったユングに対してフロイトは「転移とは何か」と尋ねる。「それは心理療法のアルファでありオメガである」と答えるユングに、フロイトは「あなたは心理療法のことをよくわかっている」と応じた。二人はその後十時間も話し続けたという。

意識の中心である自我(Ich)に対して、それよりもっとはるかに大きい無意識の中心のことを、ユングは自己(Selbst)と呼ぶ

「変容の象徴」を著した時、フロイトはユングに「頼むから神秘主義にだけは行かないでくれ」と訴えている。

学校・医療・交通の神話/イワン・イリイチ 山本哲士

現代の聖なるコスモスは、個人が”私の領域”に閉じ籠もることを合法化し、個人の主観的”自律性”を聖化する。かくて、必然的に、聖なるコスモスは第一次的公的制度の機能的自律性を補強する。人間存在の主観性を強化し、それに聖なる性質を与えることで、聖なるコスモスは単に社会構造の世俗化を支持するだけでなく、その非人間化をも促進する。」(『見えない宗教』ヤン・スィンゲドー)

<必要>をめぐってイリイチは、歴史上三つの変化があったと、医療を例にして説明している。第一の必要の変化はスルファ剤と抗生物質とともにやってきた注射が簡単で効果あるものになり、薬品が療法により多く使われはじめてきた。そして、どこかが悪いと感じた者は診療所にいき、「疾患」名をふされ「病人」と呼ばれる少数の者になった。第二の必要の変化は、病気が少数から多数者になり、各人の歯、子宮、血圧、心理、労働慣習が観察され、矯正されるようになったときに生じた。専門医師が患者を適切に処方するようになった。多数者のために、専門的処置がなされていく。第三の必要の変化は、専門的処置の多様化にみられる。一つのことに、多様な局面から何人かの専門家たちが動員される。そして、顧客はこのようなチームのアプローチが必要なのだと馴らされる。

<必要>は歴史的には特権的少数者から多数消費者に移り、ついで専門家集団が決定していくものへと転じた。この<必要>の変身の過程で、サービス制度が多数者のために確立されていった。個人がそれを選んでいた段階から、専門家集団がそれを義務的におしつけるものに変化した。今や<必要>が定義されて、それに向かって馴らされるからである。

平田清明は”produce”の本来の意味が「産むということではなくて、訴訟の文書を提出するという意味」であると指摘している。フロー(年々の生産物)ではなく、産出物の帰属関係、分配なのだといっている。

「(消費者となった――訳者)人々は物事を自らなすdoというよりもそれを得ようgetとする。自らが創造しうることではなく、購入されうるものに価値をおくように訓練される。自ら学び、自ら癒し、自分で道を進むよりも、教えられ、動かされ、治療され(取り扱われ)、ガイドされるのを欲する。人格でない諸制度が人格的な機能を割り当てられるのである。」


日本の学校形態は他の先進国と違うし、社会主義や第三世界の諸国とも異なる。それは多様である。しかし、学校で教え学ぶ社会生活を良しとする様式は、支配的にいずこの国であれ貫かれている。教育を学校化する方向で持って制度全体がととのえられようとしている。この学校は歴史的にも、アレクサンダー大王やローマや中世などの学校とも違う、産業社会に特有な学校として描きだされる。つまり、産業社会時代内での形態上の多様性は捨象され、産業社会の歴史通時上の差異が考慮される。自然社会、農耕社会、遊牧、牧畜社会とは異なる「産業社会」が識別されて対象にされている。

現代の制度的配置のもとでは、道具手段がつかわれる三つのタイプの労働が考えられる。
第一は、十分に満足がいくような、想像的で自律的な「働き」workとして通常使われる道具手段。
第二は、「仕事」laborとして示される諸活動で使われる道具手段。
第三に、単に「操作される」operated機械である。そして、車がハイウェイを操作するように教師は子どもたちを学校で操作する。非常に限られた意味でしか、トラック運転手や教師は「仕事する」laborことができない。ましてだれも「働いている」workとは感じられなくなっている。

学校の「影のカリキュラム」(hidden curriculum)を通して人々は、市場における価値、累進的消費の価値、主要な制度が視えない物(教育や健康)まで含んだ価値を生産すること、段階的前進の価値、官僚のために訓練された競争能力、知識ストックの保有者の意味、自己の地位の容認などを学ぶ。



消費商品における定期的革新は、新しいものはよりよい(better)と証明されているのだという信念を育て、現代世界観の統合的一部となっている信念である。市場化された結合は充足よりも欲求を発生させる。新しいモデルはコンスタントに貧困を革新し、消費者は持っている物と得なければならない物との間に新旧の差を覚える。生産物は常により価値あるものとして測定できるよう作られていると信じ、その消費のために自分が再教育されているのを受け入れる。「良い」(good)は、「より良い」(better)を基本的な標準とする信念に置換されている。

アメリカの大学は、世界中でもかつてなかったほどの包摂的な加入儀礼の最終段階となっている。歴史上のいかなる社会もその存続のために儀礼または神話を必要とした。しかし、われわれの社会ほど、非常に退屈で費用のかかるその神話への加入儀礼が必要であった社会はなかった。また、現代文明は、その基本的な加入儀礼を教育の名において合理化する必要を認めた最初の社会である。

「徹底的した根源的(ラディカル)な独占」……第一義的な人間的必要が、消費者の想像力までをも支配しつづけ、まったく制象化された価値を疑うことなく、しかもその制度に依存していれば社会生活がなりたってしまう。

人類史において近代は、「子供時代(childhood)」を発見し、それを普遍的教育(universal education)の名でもって「義務的学校化(compulsory schooling)」した時代である。それは、社会そのものをマクロ的な時代でもって特色づける「学校化の時代(the age of schooling)」を創造した。現象的に、学校教育はいわゆる義務教育の期間だけにとどまっているようにみえるが、自分の個体史のある時期が学校にかぎどめされたということによって、わたしたちは創造もつかないような特異な生活世界におしこめられている。その生活世界は一言でいえば、「産業的に制度化された生活様式」である。

「私の祖母はわたしに教育をえさせたかったので、わたしを学校にはやりませんでした。」マーガレット・ミード

伝統社会の紐帯の下で生活していた人たちは学校にいくことで、伝統的な食べ物や衣服や習慣、さらに言葉まで変えざるをえなくなる。……人々のためと称して、これほどまでに生活スタイルを変えたものは歴史上なかった。

「ひとたび学校が必要だと学ぶと、わたしたちのすべての諸活動が他の個別専門化された諸制度にたいして顧客という関係性の形をとるようになる。」


労働力の消費時間量=労働時間により価値がうみだされるように、学習消費時間量によって価値がうみだされる。それも学習という使用価値がなければ、この価値は生み出されない。この関係性は、まさにマルクス商品論の論理構制である。


制象化=制度化となるのは、技術的=教授学的なレベルが社会的なレベルに転成される二つの次元が対応するパイプで、それを神話が無理なくつなぎあわせている。なんでもない読み書き算を教えることで、無限発展する消費者社会が再生産されているというわけだ。この再生産を支えている神話が、サービス生産のあり方にみられる次のような神話である。
1 「制象化された価値」の神話
2 価値測定の神話
3 価値をパッケージする神話
4 進歩を自己永久化する神話


<影のカリキュラム> 「約30人のグループに或る特定の年齢の者たちが、専門教師の権威の下で年に五〇〇~一〇〇〇回集まる」

わたしたちは、古典的な理論世界における労働の疎外を得る以前に、自分自身の<学び>から自分を疎外している。<学ぶ>ことが必要とされ、学校化の需要に転じられているとき、<育つ>質は専門的な取り扱いによってつけられた<価格表>に変わっている。そして、親しさ、相互交換、生活経験を示していた「知識」は、学校化された社会では専門的にパッケージされた商品、市場化しうる資格、抽象的な価値へと変わってしまっている。

教育は新しい世界宗教になっている。支配階級から軍人、そして労働者階級にまで期待を抱かせる救済の宗教である。世界的宗教は偉大な文化が衰退するときに興ると、歴史家トインビーは指摘したが、現代産業社会の技術科学文明が衰退しつつあるときに、社会の現実と原理との間の矛盾を覆い隠すうえで、学校ほど巧みに働きかける制度はないだろう、とイリイチは言う。「学校は誰にたいしても、そのドアを閉ざす前にもうひとつのチャンスを与える――それは、矯正的な、成人教育、補習教育である。」(DS)

「学校は社会的神話の効果的な創造者・維持者として働く」(DS)

学校が知識者階級をつくりだすのではなく、その社会的可動性をも含めて既存の諸階級を再生産していくのと同様である。

「学校は、儀礼ゲームをプレイできない者、プレイしようとしない者は世界の悪であるという責めを競争者におしつけ、すした国際的ゲームに儀礼的競争を導くのである。学校は、累進的に消費をするという聖なる競争に新参者を導く加入儀礼であり、アカデミックな司祭(専門教師のこと――訳者)が忠実な者と特権・権力の神々との間の対立を調停する和解の儀礼であり、学校のドロップアウト者を未発達(「低開発」の意味をもかけている――訳者)なスケープゴートとして烙印をおし、生贄にささげる贖罪の儀礼である。」(DS)

刑務所は、治療的、矯正的で、同情をかもすイメージを装っている。かつて、それは獄舎に閉じこめること自体が目的であったが、現在では囚人の性格や行動を矯正するのに有効であるという目的をもって、社会の不同調者までをも犯罪人にしたてあげている。それは、精神病院、療養院、孤児院と同様の役割をもち、学校も同じものとなっている。


学校の操縦的性格にたいするイリイチの批判は容赦のないものである。
人々が成長し学習しようとする自然な傾向を、教えられることを要求するように転化する。他人によって成長させてもらおうとする依存は、製造された商品を求めるよりはるかに自発的活動の意欲を放棄させる。この自律的成長の責任の放棄は一種の精神的自殺である。
・特権を与えられた卒業生が税金を納める全公衆に馬乗りになっている。
・学校の中途退学者は学校にかわる別の途をとることができない。
・自動車の使用は法律で強制されないが、学校に通うことはすべての者に法律で義務づけられている。


管理社会化
①物をつくること。
②儀礼的なルールをつくること。
③執行されることが真理であるというイデオロギー、あるいは命令をつくること――そして、修正すること。それは生産物に帰属されるべき現行の価値を正当化するものである。
そして、テクノロジーがビューロクラシーの権力の増大を提供していく。

未開人にとって世界は、<運命><事実><必然性>によって統治されていたが、プロメテウスは「事実を問題にかえ、必然性を疑いうるとし、運命に反抗した」。それによって古典時代の人々は、人間的視野にたいして文明化された内容でもって枠づけるスタイルを編制したのである。その典型が、市民の教育(パイデイア)であった。ギリシャ人たちは、前代の者たちがプランした制度にパイデイアでもって自らをあてはめていく者のみを、市民として真の人間であると認めたのである。

「容赦なく、わたしたちは世界を耕し、取り扱い、生産し、学校化し、その存在を消滅させようとしている。」(DS)

学習の学校化……人間の自律的な行為が、生産と消費の生活スタイルにかえられ、希望が期待にかえられ、合理的で権威主義的な社会をつくり、人為的な形成を好み、欲求や必要を制度づくりでもって充たすようにした。学習の学校化は、制度的人間を製作する文明である。自然をかえ、社会環境をかえ、人間までもかえる。この文化的レベルで、人間の活動は<産業的活動>である生産労働に独占されていった。生産労働を基盤にして人間の社会的活動は組織されている。<行為>の世界は、贅沢なレジャーか悲惨な失業に変えられた。生産労働に参与できない者は、人間的存在さえ奪われてしまう。


日常生活のなかで、人間相互の固有な関わりあいと自律共働的な道具手段の使用によって導かれる人間本来の<自律的学習>は、目的を設定し、意図的に教え、計画化された訓練に人間が服従する<産業的学習>にかわってしまった。(TC)

社会的には、人間が生産者としてだけでなく、消費者としても役立たずになったとき、その死が同意され認められる。死がいかに思想的に表現されようと、最後の息の根を奪っているのは医療である。死ぬという主体的な行為は、その自己の力を失ってしまった。

死は一生の間対面すべきものから、一瞬の出来事に変化した。一つの全体の終りではなく、連続の途絶となった。

①長く生き残る能力
②死以前に隠退せずにいられること
③不治の状態であっても医療の助けを求めること
によって病気の新しい概念が作られる

「死の医療化を通じて、健康ケアは完全に異質分子のない一枚岩的な世界宗教となり、その信条は義務的学校で教えられ、その倫理的規範は環境の官僚主義的改造に適用される」(MN)

元来、病院とは健康の回復のためでも、健康改善する治療を施すための場所でもなかった。病院に烙印をおし、病気を悪化させ、悲惨さをはぐくむ場所であった。……病院が病気を治す場となるには、病気を一掃するという産業的イデオロギーがうまれてこなければならなかった。

「進んだ産業社会が病気を作成する(sick-making)というのは、それは人々の環境を処理する力を不能と化し、人々が倒れたとき、破壊された<関係性>のために「健康的」補綴で補うのである」(MN)

コスモポリタン的な文明は苦痛を無と化すために、主観的または間主観的な世界から痛みを切り離し、客体化する。痛みは、現在では自然な、形而上的な悪ではなく、人間がつくりだすもので、社会的な呪いと解釈されている。それにつれ、大衆が痛みに打ちひしがれているとき、大衆が社会を呪うことのないよう、その耐え難さをそらすために産業システムは医療的な痛み止めを大衆に与える。より多くの薬、病院、医療サービス、非個人的な諸団体によるケアへの要求に、痛みは変じてしまい、それゆえ人間的・社会的・経済的な根拠には手をふれず、ひたすら成長・発展を政治的に支持する結果をもたらしている。……つまり、人間・社会・経済の変革をするのではなく、痛みをとめる医療ケアを人々は要求するのである。

それでは文化の<意味の体系>における痛みとはどのようなものであろうか。それは、痛みの感覚を挑戦と理解し、その処理を通じて個人の体験を形成するものである。それは、痛みを苦悩へと変容し、耐える力を身につける自己自身に責任をもつ行為である。常に、自身を見いだし、自分の意識的な反応でもって身体についての主観的現実を形づくる。忍耐、寛容、勇気、あきらめ、自己制限、不抜、柔和さ、また、義務、愛、魅惑、日常の仕事、祈り、同情の世界がそこにくりひろげられている。痛みを必然と解し、耐え、治療するのでなく治癒するのが文化である。
 
痛みは遺伝的な所与としてまた刺激の性質や強度から体験されるだけでない。①文化、②不安、③留意、④解釈にも依っている。これらは、社会的決定因、イデオロギー、経済構造、社会的特徴から形づくられるのであって、現代医療のいうように<客観的>な項目ではない。こうした諸要因の規制の中で、文化は、痛みを本質的で、身近で、伝達し得ない、「非価値(disvalue)」と認知する。自律的行為としての使用価値そのものを形作る人間の内界の体系である。

<身体的痛みとは>「内在的で、身近で、伝達不能な、非価値として経験される身体的痛みとは、苦しむ人間が存在する社会的状況で自分自身を見いだす、というわれわれの気づきを含むものである。」
「痛みを悩むという行為は常にひとつの歴史的次元を有する」





「痛みは応答のないあるもののサインである」というイリイチは、孤独の世界で思考する人間と痛みを悩む人間とが類似しているという。「何が悪いのか?どのくらいつづくのか?なぜわたしは悩まねばならないのか、悩むべきなのか、悩みうるのか、現に悩めるのか?なぜこの種の災いが存在し、なぜわたしを襲うのか?」と。
 こうした苦悩する個人の行為は、一率の専門医学的な扱いをうけるようなものではない。鎮痛剤の鎮痛効果で処置できるようなものではない。しかしながら痛みを抹殺する産業的人間は、痛みを感じても、それを悩む能力をなくしてしまうのである。つまり、文化の構造を失ってしまうのだ。

医療発生病は、現実に耐え、それを自己統御する<政治>的自律を奪っているものとして、鋭く照射された。

専門エリートである医師は、同じ人間仲間が適応できない社会状態を批判しないで、むしろ病人となった個人は、「他の専門職者たちがエンジニア化し管理した環境に一致できないのである」(MN)と判定をくだし、可能な限りの適切な復帰対策を個人の病気を治療するために遂行する。病気が実体として認識されるという、その文明の様態それ自体は、このように政治的な安定化の方向づけをもったものである。

イリイチの臨床的医療発生病にたいする指摘は簡潔である。
①医師は治療に有効でない
②医学的治療は役に立たない
③医師の損害はさらなる医療化へと切り替えられている不当行為である
④そこで患者は全く無防備におかれている


医療―文化が人間相互の諸関係に与える形(shape)……それは、弱者、老衰者、幼若者、身体障害者、抑うつ者、躁者といった個人のあり方を動機づけ組織するものである。ある共同社会の弱者にたいして、医学が寛容さをもって非利己的援助を与えるならば、病者の苦悩を有効に弱め、しかもある方の社会的性格を別につくりだすことさえできる。かつての共同社会の文化を、例えば、<贈与関係>なども、産業的に解体することさえできるのである。


医療的諸処置がひとを呪い殺す「黒魔術」にかわるのは、「自己治癒の力を動員する代わりに、病人を気の抜けたものに変え、自分の治療にたいして神秘のベールをかぶせられた傍観者に変えてしまう」ときである。また「病める宗教」になってしまうのは、「病者が自分の苦悩にたいして詩的解釈を求めたり、あるいは、苦しむのを学んでいた人の中に尊敬すべき例を見出そうとするかわりに、病者の全期待を科学とその諸機能に集中させる儀式として、医療処置が実施されたときである。」

「どんな社会であれ、安定するためには、証明された異常が必要である」MN したがって、奇妙な様式や行動のおかしい者は、その共通の特徴が公式的に命名されて、人を驚かす彼の行動の仕方が一般に認められうる整理棚に整理されるまでは、破壊的であるとみなされる。名が付され役割が与えられることによって、変わり者は矯正・馴化されるか、あるいは排除される。


医療発生病とは、
1痛み、病気、死が専門技術的な医療ケアの結果として生じたときに<臨床的>であり、
2健康政策が不健康をもたらす産業的組織化を強化するときに<社会的>であり、
3医学が後押しする行動と妄想とが、人間が成育し、互いに愛し合い、年をとる能力を不能にすることによって、人々の生命力の自律性を制限するとき、あるいは、医療的介入が、個人の痛み、損傷、苦悩、死に対する反応を不能化するとき、<構造的>なものとなる。


健康とは痛みを殺し、病を排除し、生命をひきのばすことではない。痛み、病気、死を人生の不可欠の部分にし、この三者を自律的に処理し闘う能力が、健康という行為の基本であるのだ。人間は意識的に弱さ、個体性、関係づけに生きているため、痛・病・死はさけがたいものなのである。この自分の親しい内奥を管理的な扱いに託してしまうとき、わたしたちは政治的自律性を放棄し、健康を衰退させているのである。

交通

通い=trip
旅行=travel

より多くのエネルギーが輸送システムの手段に投じられると、輸送システムが平等に人々に分配されるのではなく、一部の特権エリートが気ままな旅行の生活時間を制限のない距離をこえて楽しめるようになる。その一方で多くの者は望んでもいない通いをいやいやながらしている他ないという、より巨大化したシステムの中のわずか断片をあちこち移動する存在に変わっていく。少数者の移動空間は魔法のじゅうたんにのった旅行である。一方で、多数者は、より長い距離をより早く移動できる旅行を得るために通いにもっと多くの時間を費やし、この通いで失った時間をとりもどすためにさらにより多くの時間を費やすように強いられる。


速度の加速化がよしとされる根拠は<時間>が交換価値となっているからである。移動に要する時間という存在は、時間それ事態を交換可能で価値あるものに構成し、その価値をより速いスピードによって高めている。「費やされ、セーブされ、投資され、浪費され、雇用され」る時間という言語表現は、時間が商品化されていることの表われである。さらに、時間に価格標がつけられると、加速化によって公正が保たれるという神話が発生する。
 自分の歩く力で動いている者が多いところは、「低開発」と定義されて、高速度の特権をより多くの者に分け与えるのが公正であるというようになる。モーター乗り物の速度によって、発展の度合いが測定される。個人の成功度合いを評価するだけでなkう、国家の発展も速度によって評価される。

1・根源的独占は、より多量なものへのアクセス権を有した者に利となる社会を再編制することによって設立される。
2・それは、すべての者に最小限の量を消費するように強いることで強化される。(なにがなんでも、モーター乗り物を使用するように強いる)


「低装備……各市民に一大の自転車がわりあてられておらず、自分の足で動くよりも五倍の速さでペダルを踏んで移動する条件がそろっていない。また、その道路がよく整備されていない。数時間以上の継続した旅を欲する者に、公的なモーター輸送が無料で与えられていない。」
「過剰産業化……社会生活が輸送産業によって支配されている。それが、階級的な特権を決定し、時間の欠乏を強化し、人々をはじきだす道路網やクルマに彼らをもっと結びつけようとする。」

人間の自律移動は、新陳代謝エネルギー消費という点で、すべての諸活動の土台である。モーター速度道路によって、ある階級からまっすぐ歩く道が奪われ、歩道橋や信号機によって統御されているとき、<安全性>の名の下で社会統制は「足の生活」から「頭の生活」までを貫徹しているのである。クルマが一台も走っていないのに、赤信号に立ちどまって群がっている産業適任g値は、完全に自分の行動を規制されている。それは赤ランプの記号に立ちどまって、政治の危機や生存の危機の赤信号には全く鈍感になっている人間の姿である。


「……文化発展の『最後の人々』にとっては、次の言葉が真理となるであろう。それは『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、かつて達せられたことのない人間性の段階にまで登りつめた、と自惚れるのだ』と」プロ倫

いかなる文化であれ、市場化されない使用価値を中心にして生活が構成されていた。今や自分で為し、自分でつくることはその価値を奪われ、価値を得ることに置換されている。人々が、処理し、遊び、食べ、友人をつくり、愛を交わしていた、そうした「下部構造」の中での生活は破壊され、生産経済的下部構造が土台となってしまった。標準化された商品・サービスが生産され、人々が消費者としてそれを期待し消費し充足するという生活のパターンは、「行為」の使用価値、自律共働的道具を後退させてしまったのである。


豊かな社会では、ほとんどすべての人は破壊的な消費者であり、何らかの形で環境の攻撃に関与し、成長に関する利害の強力な守護神ともなっている。そして、多数消費者は政治的多数者であり、多数者であれば力があるという神話がまた政治的行為を麻痺させている。モーター乗り物を必要とし、子どものために学校を必要とし、医療を要求し、他方で職業に不安を感じている、工場労働者やホワイトカラーやセールスマンや、さらに経営者や資本家までもが、ともに成長を擁護する選挙区の投票者として、なんとなく政治的に均質化されている。中流や中間層の幻想があるのではなく、成長を守る多数者の神話が政治的に構成されているという<政治>の問題で考えられるべきだ。
 したがって、成長に諸限界を設定しようと運動を起こす多数者などは存在しえないのである。

「魔術者や神秘学者を必要とせずに、苦悩と死に直面できる人々は、現在、教師や技術工学者や弁護士や司祭や党官僚によって実施されている期待の諸形態にたいして反乱することができる」

シトフスキーは「幸福は社会的なランキングに依るもので収入の絶対量によるものではない」と結論した。
ここからわたしたちが読みとれるのは、市場集中社会あるいは商品集中社会では、「ランク・ハッピネス」の感覚がつくりだされているという天である。ほとんどの個人的活動は収入を増やし、売りだされている商品やサービスを買い入れるアクセス権をえようとするものである。創造的な活動と非公式的な相互個人関係から由来する本来の満足は消え失せ、前世代よりもより高い「生活標準」を得ることによって満足感が達成されるという仕組みになっている。

フーコー 知と権力/桜井哲夫

フーコーは、カンギレム論の最後の方で、「ニーチェは、真理とは、最も深みのある嘘だと述べた。このニーチェの立場に近くもあり遠くもあるカンギレムなら、おそらく、真理とは、生命の長大な暦の上での、最も新しい誤りだといっただろう」

狂気は、未開の状態では、発見されることはありえません。狂気は、ある社会のなかにしか存在しないのです。つまり、狂気というのは、狂気[とされるもの]を孤立させるような感情のあり方、狂気[とされるもの]を排除し、つかまえさせるような反感(嫌悪)のかたちがなければ、存在しないのです。こうして、中世において、そしてルネッサンスにおいても、狂気は、一つの美学的ないし日常的な事実として社会の視野のなかに立ち現れていたのだと言えます。そして、十七世紀において――ここから監獄が始まります――狂気は、沈黙と排除の時代を経験することになります。

ミリュー
狂気が生まれたのは、人間が、動物たちのような自然に従った生き方を捨て去って、自然の秩序に反するような社会環境・社会的諸関係を作り出したからである。かつて、自然からの警告だの、危険が迫ったことへの身体的、精神的な反応だのととらえられた時代とは違って、狂気は、ある出発点をもって、しだいに、人間をとりまく社会的諸関係・社会環境が複雑に、不透明になればなるほど増大してゆく病理となってゆくのである。

結局、私は十九世紀においては、解釈は、あなたが治療と呼んで理解しているものに確かに近いものだったと考えています。十六世紀では、解釈は、啓示だの救済だのと言った側に意味を見出していたのです。私は、ここで、あなたに、ガルシアという名前のある歴史家の言葉を引きたい。彼は、1860年に次のようにいったのです。「われわれの時代から、健康が救済にとってかわったのである。

「物事を解釈するよりも、解釈を解釈する仕事の方が多く、書物に関する書物の方が多い」モンテーニュ

マルクスは、「価値」について批判的解釈を行い、ニーチェは、ギリシャ語のいくつかの言葉の批判的解釈をおこなった。フロイトは、明確な言葉にならない夢や幻覚を批判的に解釈しようとした。だが、彼らがおこなったのは、言葉に埋め込まれた根本的な真理をとらえるためではなく、われわれが、言語が生み出しているいかなるイデオロギーによって支配されているかということを暴くことなのだった。

フーコーは、言語がなんら特殊なものではなくなった(平準化)結果生まれた最も思いがけない出来事は、「文学」の出現だと述べる。紙の上にひたすら言葉を書くという沈黙の行為、自己以外何も語るものもなく、もっぱら、それ自体のために存在するものとしての「文学」は、まさに、近代の産物である。そして、かつてのように神によって創造された世界というテクストを読み込むというような営為とは無関係に、近代文学は、「出発点も終点も見込みもないままに成長してゆく」(第一部第二章の結びの表現)

十八世紀末以前には、「人間(ロム)」なるものは存在しなかったのである。(……)それは、二百年たらずま絵に、知(学問体系)という造物主(デーミウルゴス)がおのれの手で作り出した、まったく最近の被造物なのである。

フーコーは、カンギレムの「概念の歴史」を忠実に継承しながら、近代の学問体系(知)が設定する「人間」という価値基準が、その裏に「非人間」という存在を前提としていることを暴こうとした



長いこと、ぼくは髪の毛がなくなってゆくせいで打ちのめされていた。だけど、頭を剃ると決めたときから、二度と髪の毛のことは考えなくなったんだ。 とモーリスパンゲに打ち明けた(「徒弟修行の時代」)

社会関係のなかに人が存在して、そのなかで動かされていることを認めず、自律的な存在として自分をコントロールできると思いこむことは、他人をも簡単にコントロールできると思い込むことにつながる。全体主義というのは、そうした自己コントロールの思想の延長上にあると考えるべきである。自己開発だの、自己啓発だのという心理的コントロールが、全体主義的テクニックだというのは、そういう意味である。

知識人の役割は、もはや、誰もが口にしない真理をいうために、「少し前に、あるいは少し横に」位置することではないのだ。それは、むしろ、彼が、権力の対象となり、かつその道具にもされている場所で、権力の諸形態に対して戦うことにあるわけだよ。つまり、「学問体系(知)」「真理」「意識」「言説」といった領域のなかで戦うことなのだが。(ジル・ドゥルーズとの対談「知識人と権力」の中で)

身体刑が残虐だった理由……フーコーは、その要因を、君主という権力が自己を表明する儀式として、処罰はおこなわれたからだ、と述べる。犯罪は、法令を布告する人間(君主)の権利を侵し、傷つける行為なのであって、……傷つけられた君主権を回復する行為なのである。
十八世紀における刑罰改革の骨子は、君主による報復という目標から、社会の掟の擁護という目標への変換とつながっている。……犯罪者が重ねて悪事を働かないように、また悪事を模倣する者が出ないようにすること

「労働は、近代人にとっての神の摂理(proviedence)」

「規格化を行う処罰(サンクション)について」
◇処罰は、以下のような意味合いをもって実行される。
◇わずかなミスでも処罰されることが一般化されることで、子どもに自分がおこなった罪を認識させる。
◇水準に達しないこと、規則からの逸脱など、不適合なものという領域も処罰の対象となる。
◇逸脱をなくすという機能を持つ。個人の欠点の矯正を義務の繰り返しによって行う。
◇処罰は、一方で褒賞(ほめる)という形式と一体になっている。処罰と褒賞の図式は、そのまま個人の評価形成の材料となる。
◇処罰は、逸脱をあきらかにすることであり、能力や適性を明示し、階層序列を正当化するものである。

試験とは、いわば「規格(一定の基準)」を中心とするものの見方であり、個人の能力を量として測定し、資格を与え、階層序列を決める権力の儀式である。そこでは、見られているのは、受験生(臣下)であって、権力者(君主)ではない。受験生は絶えず見られていることになる。そして、それぞれの試験の成績が文書として整理され、個人は「一つの事例(un cas)」として登録されているのである。


①権力は、無数の点から出発し、不規則で一定しない諸関係によって成立するゲームのなかで機能する(見に見え、奪い取れる具体的な実態ではなく、揺れ動く諸関係のなかでそのつど作りだされるものである)。
②権力の諸関係は、経済、学問、性といった減少が生み出している諸関係の外にあるものではなく、そうした諸関係のなかに作りだされているものである。
③権力は、下部からくる。支配するもの、支配されるものという古典的な二項図式は否定される。社会の基盤にある家族や会社、サークルなどの小集団のなかで生みだされる力の関係が、全体を統括する権力関係の基礎となる。
④権力をふるうのは、特定の個人でもなく、特定の司令部でもない。あくまでも、諸関係のなかで、その作用によって権力が行使されるにすぎない。
⑤権力の外部に抵抗があるのではなく、抵抗は、あくまでも権力の内部にある。一つの固定した抵抗の拠点があるのではない。あくまでも、諸関係の網の目のなかで、不規則に発生するのが、抵抗であり、権力は、この不規則な抵抗を完全に排除することはできない。そして、この抵抗点が、戦略に結びつけられて作動したとき(つまり、権力の諸関係の網の目が崩されたとき)、革命が可能になる。

中世においては、「教会―家族」という組み合わせが人々を支配してきたが、現在では、「学校―家族」という組み合わせが人々を支配している。つまり、家族と学校がグルになって、人々を自発的に服従させているのである。

17世紀以来、「生」に対して、権力は、二つの形態で発展してきた。
①人間の身体のアナトモ・ポリティック(解剖学的社会学)
 人間の身体を管理し、調整し、訓育し、社会システムに適応させる。
②人口を形成する住民のビオ・ポリティック(生を管理する政治学)
 住民の出産管理、健康の管理、死亡率の軽減政策、衛生管理など。

かくて、「生に関する権力(bio-pouvoir)」の時代が始まったのだ

「性」は、「生殖=人口増大」と「性的逸脱を規律する規制」の双方に関わる問題であるがゆえに、権力にとって重要性を増したともいえるのである。かつて、「血」は、地位世襲における血筋の尊重、流血による権力維持、血盟などに表されるように、権力を象徴するものであった。だが、近代社会は、こうした「血の社会」ではなく、身体管理と結びついた「性(セクシュアリテ)」こそが、意味をもつ社会となったのだ。だからこそ、性は、過剰なほど語られ、性への欲望は、際限なくかきたてられることになる。
だから、性を肯定するとか、積極的に語るとかは、解放でもなんでもない。むしろ、それは、性への欲望をかきたてている権力の装置(ビオ・ポリティック)にわれわれが、からめとられているという現実を映し出すだけだ。

性(セクシュアリテ)に対する反攻(コントル・アタック)の拠点は、欲望としてのセックスにあるのではなく、身体と快楽(les corps et les plaisirs)なのである。

近代国家は、新しい政治形態のなかに、古いキリスト教の権力技法、すなわち司牧システム(パストラ)を導入したのである。この近代の司牧権力(pouvoir pastoral)は、国家の人口を構成する住民の健康、福祉、安全を守る(現世での救済の保証)システムであり、この結果として、官僚層が増大し、十八世紀にいたって、警察機構が成立した。……

ヘブライのシステム……
①羊飼いは、土地に対してではなく、羊に対して権力をふるう。
②羊飼いは、羊を集め導く。羊飼いがいないと、群れはばらばらになる。
③羊飼いの役目は、自分の羊の群れの救済を確実なものにすること。個別的に羊の上と乾きを満たすべく、気配りをする。
④羊飼いは、羊の群れに対して献身的である。群れの至福のためにどのようなこともする。

古いキリスト教の司牧システム……
①キリスト教では、羊飼い(司祭)は、ヘブライと同じく個々の羊、全体の羊のことを考えねばならなかったが、さらに、個々の羊の行動や彼らが起こす問題すべてを引き受けねばならなかった。
②キリスト教では、羊飼いと羊の関係を個別t系に結ばれた関係であって、しかも個別的な従属関係とみなした。
③キリスト教では、羊飼いは、個々の羊の状態を把握し、内面をもおさえねばならないとされる。そのために、羊たち(信者)の良心を問いただし、教え導く手段を開発した。
④告白、自己糾明などのキリスト教の技術は、個々に自分を責めさいなむ苦行(モルティフィカシオン)を強いる。この世と自分自身への断念を確認させるものである。

近代国家は、新しい政治形態のなかに、古いキリスト教の権力技法、すなわち司牧システム(パストラ)を導入したのである。この近代の司牧権力(pouvoir pastoral)は、国家の人口を構成する住民の健康、福祉、安全を守る(現世での救済の保証)システムであり、この結果として、官僚層が増大し、十八世紀にいたって、警察機構が成立した。……

おそらく、今日、主要な目的は、われわれが何者であるかを発見することではなく、われわれの今のあり方を拒否することである。近代権力構造の個別化であると同時に全体化でもある、この一種の政治的な「二重拘束(ダブル・バインド)から抜け出すために、われわれが何者でありうるのかを想像し、それを具体化しなければならない。
 現代の政治的、倫理的、社会的、哲学的な問題は、国家及び国家の諸制度から個人を解放することではなく、国家と、国家に結びつけられた個別化(individualization)のタイプの両方からわれわれを解放することであると述べて、結論としたい。われわれは、数世紀にわたって、われわれに押しつけられてきた、この種の個人性を拒否することによって、新しい主体性の形態を作り上げねばならないのだ。(「主体と権力」)

フーコーがひとをとらえて離さないのは、個人の苦悩の探求が、社会を知りたいという欲望と結びつきうるのだ、という事実をフーコーが明らかにしたからなのである。

かつて、医者は患者に「どうしたのですか」とたずねた。だが、十八世紀末に、新しいものの捉え方、まなざしが生まれ、「どこが悪いのですか」という問いかけにかわった。……つまり、この問いかけには、病を全身的なものとみなす立場から、人間の身体を「機械のように多くの部品で作られているもの」とみなす立場への変化が語られているのである。

十九世紀以後、女性の身体の管理、子どもの性的行動の管理、生殖行為の管理を通じて、国家権力にとって、(近代的)家族こそが、性的な欲望を生み出し、支え、根付かせる重要な装置となった。したがって、適応できない病者を家族に適応できるようにすることが、精神科医の仕事となるわけである。「性に関する権力(ビオ・ブーヴォワール)」の時代の中で、身体管理と結びついた「性」は重要なものとされ、だからこそ、性への欲望をかきたてるためにも、性は語られ、書かれなければならないのだ。