地獄は克服できる/ヘルマン・ヘッセ フォルカー・ミヒェルス編

私たちは読みながら、たえずあこがれと羨望の念を抱く。「この人たちには暇があるのだ!」。そう、たっぷり時間があるのだ!この人たちはひとりの美女の美しさを表現したり、あるいはひとりの悪漢の卑劣さを描写したりするための新しい比喩を考え出すのに、一昼夜をかけることができるのである。……かれらのは底なしの泉からくみ上げるように時間をくみ上げる。この場合、一時間とか一日とか一週間の損失はたいしたことではない。

病気と、待たなければいけないという状態とは、どんな場合でも私たちに、はっきりとした教訓を与える。とりわけ私たちはすべて神経症の苦痛からとくに強烈な教育を受ける。異常なほどに謙虚な優雅さと、優しい思いやりの気持ちを態度や言葉で表す人を見て、人々は「あの人はひどく苦しんだに違いない」と言うことがある。不眠の夜という学校ほど、自分自身の肉体と考えを制御する能力をよく磨き、養ってくれる学校はほかにない。

人を優しく扱い、いたわることができるのは、自分自身も同じように優しく扱われたいと望む人だけである。物事を寛大に観察して、愛情を込めて比較検討し、ひとりの人間の行動ないし性格の心理的原因を洞察し、人間のもつ弱みをことごとく好意的に理解できるのは、しばしば孤独なときの容赦のない静けさのなかで、自分自身の奔放な想念のとりこになって苦しんだことのある人だけである。多くの夜を眠られぬままに、静かに横たわったことのある人を、日ごろ見分けることはむずかしくない。

私たちの生活の構成要素である行為と苦悩は、補い合って一体をなし、不可分の者である。……それゆえ上手に悩むコツを覚えたものは、生きることに半分以上成功したこと、いや、それどころか、完全に成功したことになる!……苦悩から力が湧き、苦悩から健康が生まれるのだ。突然倒れて、ささいなことが原因で死んでしまうのは、いつもいわゆる「健康な人」であって、苦しむことを学ばなかった人々である。苦悩は人を強くし、苦悩は人を鍛える。

毎朝空が白み
世界が冷ややかに敵意を込めて見つめるたびに
おまえの信頼はただお前自身だけに
向けられねばならぬことを知る

けれどなじんでいたよろこびの土地から
おまえ自身のなかに追放されて
おまえは知る おまえの信仰が
新しい楽園に向けられていることを

おまえになじみなく敵と見えたものが
おまえ固有のものであることをおまえは知る
そしておまえはおまえの運命に
新たな名をつけ それを甘受する

おまえを押し潰そうとしたものが
おまえに好意をみせ 精気を放つ
それは案内者であり使者であり
おまえを高く より高く導いてくれる



私は著作を通して、ときおり若い読者たちが混乱状態に陥るところまで、つまり彼らがたった一人で、よりどころとなる慣習なしに人生の謎と対決するに至るまで力を貸しました。そのほとんどの人にとって、そのことはすでに危険なことです。そして、それゆえに、ほとんどの人々がその状態を回避して、新しい精神的支柱となる人間関係やよりどころとなる人々を捜し求めます。無秩序の中に踏み込んで私たちの時代の地獄を意識して体験する精神力をもつひじょうに少数の人々は、「指導者」なしに自力でそれをやりとげます。私の著書は、読者がそれを望むなら、私たちの時代のさまざまな理想や徳目の背後にかくれた無秩序を見抜くところまで読者を導いてゆきます。この無秩序が解決できるという、つまりこの無秩序に新しい秩序を与えることができるという予感は今日ではもう普遍性をもつ「教義」になることはできません。この予感は、各個人がそれぞれの筆舌につくしがたい体験を通して心の中で実現するものです。

絶望は、人間の生活を理解し、それを正当化しようとするあらゆる真剣な試みの結果生ずるものです。絶望は、人生を、徳をもって、正義をもって、理性をもって耐え抜き、そのさまざまな要求を満たそうとする真剣な試みの結果生ずるものです。この絶望を知らずに生きているのが子どもたちであり、この絶望を乗り越えたところで生きているのが目覚めた人たちです。

没落などという者は存在しない者です。没落とか上昇とかが存在するためには、上とか下とかがなくてはならない。けれど、上とか下とかいうものなど存在しないのです。それはただ人間の頭の中に、つまり錯覚のふるさとにだけあるものなのです。すべての対立は錯覚なのです。白と黒も錯覚、死と生も錯覚、善と悪も錯覚なのです。あなたには没落と見えるものが、私には誕生と見えるかも知れません。どちらも錯覚なのです。地球が空の中の不動の円盤だと信じる人が、上昇とか没落だとかを見たり信じたりするのです。――そしてほとんどすべての人がこの不動の円盤を信じているんです!星そのものは、上も下もまったく関係ありません。

つまり私たちは、せめてただ一度だけでもすべての価値基準を退けて、あるがままの自分自身を、道徳とか高潔な心とか、すべての美しい外観を考慮せず、無意識が表明するままに、自分のむきだしの衝動と願望、自分の不安と苦痛にとらわれた私たち自身をよく見つめてみるべきである。そしてその地点、このゼロの地点から始めて、私たちは実際の生活にとって価値のあるものの目録をつくり、私たちの実際の生活にとって否定すべきものと肯定すべきもの、善いものと悪いものとを分け、私たち自沈に大して命令すべきものと禁止すべきものの表をつくることをふたたび試みなくてはならない。

冷たいネオンの光に照らされた、一見、完全な意識と理性の領域へ通じる道があります。しかしこの領域を通り過ぎた者は、ふたたび自然の支配する土地、ふたたび暖かい領域、ふたたび素朴と愛の領域に戻ります。この冷たい領域から逃避することによってではなく、この領域を超克することによって、それらのものに到達することができるのです。これらのものはまた、手に入れても失われることがあるでしょう。そしてまた手に入れることができるでしょう。