学校・医療・交通の神話/イワン・イリイチ 山本哲士

現代の聖なるコスモスは、個人が”私の領域”に閉じ籠もることを合法化し、個人の主観的”自律性”を聖化する。かくて、必然的に、聖なるコスモスは第一次的公的制度の機能的自律性を補強する。人間存在の主観性を強化し、それに聖なる性質を与えることで、聖なるコスモスは単に社会構造の世俗化を支持するだけでなく、その非人間化をも促進する。」(『見えない宗教』ヤン・スィンゲドー)

<必要>をめぐってイリイチは、歴史上三つの変化があったと、医療を例にして説明している。第一の必要の変化はスルファ剤と抗生物質とともにやってきた注射が簡単で効果あるものになり、薬品が療法により多く使われはじめてきた。そして、どこかが悪いと感じた者は診療所にいき、「疾患」名をふされ「病人」と呼ばれる少数の者になった。第二の必要の変化は、病気が少数から多数者になり、各人の歯、子宮、血圧、心理、労働慣習が観察され、矯正されるようになったときに生じた。専門医師が患者を適切に処方するようになった。多数者のために、専門的処置がなされていく。第三の必要の変化は、専門的処置の多様化にみられる。一つのことに、多様な局面から何人かの専門家たちが動員される。そして、顧客はこのようなチームのアプローチが必要なのだと馴らされる。

<必要>は歴史的には特権的少数者から多数消費者に移り、ついで専門家集団が決定していくものへと転じた。この<必要>の変身の過程で、サービス制度が多数者のために確立されていった。個人がそれを選んでいた段階から、専門家集団がそれを義務的におしつけるものに変化した。今や<必要>が定義されて、それに向かって馴らされるからである。

平田清明は”produce”の本来の意味が「産むということではなくて、訴訟の文書を提出するという意味」であると指摘している。フロー(年々の生産物)ではなく、産出物の帰属関係、分配なのだといっている。

「(消費者となった――訳者)人々は物事を自らなすdoというよりもそれを得ようgetとする。自らが創造しうることではなく、購入されうるものに価値をおくように訓練される。自ら学び、自ら癒し、自分で道を進むよりも、教えられ、動かされ、治療され(取り扱われ)、ガイドされるのを欲する。人格でない諸制度が人格的な機能を割り当てられるのである。」


日本の学校形態は他の先進国と違うし、社会主義や第三世界の諸国とも異なる。それは多様である。しかし、学校で教え学ぶ社会生活を良しとする様式は、支配的にいずこの国であれ貫かれている。教育を学校化する方向で持って制度全体がととのえられようとしている。この学校は歴史的にも、アレクサンダー大王やローマや中世などの学校とも違う、産業社会に特有な学校として描きだされる。つまり、産業社会時代内での形態上の多様性は捨象され、産業社会の歴史通時上の差異が考慮される。自然社会、農耕社会、遊牧、牧畜社会とは異なる「産業社会」が識別されて対象にされている。

現代の制度的配置のもとでは、道具手段がつかわれる三つのタイプの労働が考えられる。
第一は、十分に満足がいくような、想像的で自律的な「働き」workとして通常使われる道具手段。
第二は、「仕事」laborとして示される諸活動で使われる道具手段。
第三に、単に「操作される」operated機械である。そして、車がハイウェイを操作するように教師は子どもたちを学校で操作する。非常に限られた意味でしか、トラック運転手や教師は「仕事する」laborことができない。ましてだれも「働いている」workとは感じられなくなっている。

学校の「影のカリキュラム」(hidden curriculum)を通して人々は、市場における価値、累進的消費の価値、主要な制度が視えない物(教育や健康)まで含んだ価値を生産すること、段階的前進の価値、官僚のために訓練された競争能力、知識ストックの保有者の意味、自己の地位の容認などを学ぶ。



消費商品における定期的革新は、新しいものはよりよい(better)と証明されているのだという信念を育て、現代世界観の統合的一部となっている信念である。市場化された結合は充足よりも欲求を発生させる。新しいモデルはコンスタントに貧困を革新し、消費者は持っている物と得なければならない物との間に新旧の差を覚える。生産物は常により価値あるものとして測定できるよう作られていると信じ、その消費のために自分が再教育されているのを受け入れる。「良い」(good)は、「より良い」(better)を基本的な標準とする信念に置換されている。

アメリカの大学は、世界中でもかつてなかったほどの包摂的な加入儀礼の最終段階となっている。歴史上のいかなる社会もその存続のために儀礼または神話を必要とした。しかし、われわれの社会ほど、非常に退屈で費用のかかるその神話への加入儀礼が必要であった社会はなかった。また、現代文明は、その基本的な加入儀礼を教育の名において合理化する必要を認めた最初の社会である。

「徹底的した根源的(ラディカル)な独占」……第一義的な人間的必要が、消費者の想像力までをも支配しつづけ、まったく制象化された価値を疑うことなく、しかもその制度に依存していれば社会生活がなりたってしまう。

人類史において近代は、「子供時代(childhood)」を発見し、それを普遍的教育(universal education)の名でもって「義務的学校化(compulsory schooling)」した時代である。それは、社会そのものをマクロ的な時代でもって特色づける「学校化の時代(the age of schooling)」を創造した。現象的に、学校教育はいわゆる義務教育の期間だけにとどまっているようにみえるが、自分の個体史のある時期が学校にかぎどめされたということによって、わたしたちは創造もつかないような特異な生活世界におしこめられている。その生活世界は一言でいえば、「産業的に制度化された生活様式」である。

「私の祖母はわたしに教育をえさせたかったので、わたしを学校にはやりませんでした。」マーガレット・ミード

伝統社会の紐帯の下で生活していた人たちは学校にいくことで、伝統的な食べ物や衣服や習慣、さらに言葉まで変えざるをえなくなる。……人々のためと称して、これほどまでに生活スタイルを変えたものは歴史上なかった。

「ひとたび学校が必要だと学ぶと、わたしたちのすべての諸活動が他の個別専門化された諸制度にたいして顧客という関係性の形をとるようになる。」


労働力の消費時間量=労働時間により価値がうみだされるように、学習消費時間量によって価値がうみだされる。それも学習という使用価値がなければ、この価値は生み出されない。この関係性は、まさにマルクス商品論の論理構制である。


制象化=制度化となるのは、技術的=教授学的なレベルが社会的なレベルに転成される二つの次元が対応するパイプで、それを神話が無理なくつなぎあわせている。なんでもない読み書き算を教えることで、無限発展する消費者社会が再生産されているというわけだ。この再生産を支えている神話が、サービス生産のあり方にみられる次のような神話である。
1 「制象化された価値」の神話
2 価値測定の神話
3 価値をパッケージする神話
4 進歩を自己永久化する神話


<影のカリキュラム> 「約30人のグループに或る特定の年齢の者たちが、専門教師の権威の下で年に五〇〇~一〇〇〇回集まる」

わたしたちは、古典的な理論世界における労働の疎外を得る以前に、自分自身の<学び>から自分を疎外している。<学ぶ>ことが必要とされ、学校化の需要に転じられているとき、<育つ>質は専門的な取り扱いによってつけられた<価格表>に変わっている。そして、親しさ、相互交換、生活経験を示していた「知識」は、学校化された社会では専門的にパッケージされた商品、市場化しうる資格、抽象的な価値へと変わってしまっている。

教育は新しい世界宗教になっている。支配階級から軍人、そして労働者階級にまで期待を抱かせる救済の宗教である。世界的宗教は偉大な文化が衰退するときに興ると、歴史家トインビーは指摘したが、現代産業社会の技術科学文明が衰退しつつあるときに、社会の現実と原理との間の矛盾を覆い隠すうえで、学校ほど巧みに働きかける制度はないだろう、とイリイチは言う。「学校は誰にたいしても、そのドアを閉ざす前にもうひとつのチャンスを与える――それは、矯正的な、成人教育、補習教育である。」(DS)

「学校は社会的神話の効果的な創造者・維持者として働く」(DS)

学校が知識者階級をつくりだすのではなく、その社会的可動性をも含めて既存の諸階級を再生産していくのと同様である。

「学校は、儀礼ゲームをプレイできない者、プレイしようとしない者は世界の悪であるという責めを競争者におしつけ、すした国際的ゲームに儀礼的競争を導くのである。学校は、累進的に消費をするという聖なる競争に新参者を導く加入儀礼であり、アカデミックな司祭(専門教師のこと――訳者)が忠実な者と特権・権力の神々との間の対立を調停する和解の儀礼であり、学校のドロップアウト者を未発達(「低開発」の意味をもかけている――訳者)なスケープゴートとして烙印をおし、生贄にささげる贖罪の儀礼である。」(DS)

刑務所は、治療的、矯正的で、同情をかもすイメージを装っている。かつて、それは獄舎に閉じこめること自体が目的であったが、現在では囚人の性格や行動を矯正するのに有効であるという目的をもって、社会の不同調者までをも犯罪人にしたてあげている。それは、精神病院、療養院、孤児院と同様の役割をもち、学校も同じものとなっている。


学校の操縦的性格にたいするイリイチの批判は容赦のないものである。
人々が成長し学習しようとする自然な傾向を、教えられることを要求するように転化する。他人によって成長させてもらおうとする依存は、製造された商品を求めるよりはるかに自発的活動の意欲を放棄させる。この自律的成長の責任の放棄は一種の精神的自殺である。
・特権を与えられた卒業生が税金を納める全公衆に馬乗りになっている。
・学校の中途退学者は学校にかわる別の途をとることができない。
・自動車の使用は法律で強制されないが、学校に通うことはすべての者に法律で義務づけられている。


管理社会化
①物をつくること。
②儀礼的なルールをつくること。
③執行されることが真理であるというイデオロギー、あるいは命令をつくること――そして、修正すること。それは生産物に帰属されるべき現行の価値を正当化するものである。
そして、テクノロジーがビューロクラシーの権力の増大を提供していく。

未開人にとって世界は、<運命><事実><必然性>によって統治されていたが、プロメテウスは「事実を問題にかえ、必然性を疑いうるとし、運命に反抗した」。それによって古典時代の人々は、人間的視野にたいして文明化された内容でもって枠づけるスタイルを編制したのである。その典型が、市民の教育(パイデイア)であった。ギリシャ人たちは、前代の者たちがプランした制度にパイデイアでもって自らをあてはめていく者のみを、市民として真の人間であると認めたのである。

「容赦なく、わたしたちは世界を耕し、取り扱い、生産し、学校化し、その存在を消滅させようとしている。」(DS)

学習の学校化……人間の自律的な行為が、生産と消費の生活スタイルにかえられ、希望が期待にかえられ、合理的で権威主義的な社会をつくり、人為的な形成を好み、欲求や必要を制度づくりでもって充たすようにした。学習の学校化は、制度的人間を製作する文明である。自然をかえ、社会環境をかえ、人間までもかえる。この文化的レベルで、人間の活動は<産業的活動>である生産労働に独占されていった。生産労働を基盤にして人間の社会的活動は組織されている。<行為>の世界は、贅沢なレジャーか悲惨な失業に変えられた。生産労働に参与できない者は、人間的存在さえ奪われてしまう。


日常生活のなかで、人間相互の固有な関わりあいと自律共働的な道具手段の使用によって導かれる人間本来の<自律的学習>は、目的を設定し、意図的に教え、計画化された訓練に人間が服従する<産業的学習>にかわってしまった。(TC)

社会的には、人間が生産者としてだけでなく、消費者としても役立たずになったとき、その死が同意され認められる。死がいかに思想的に表現されようと、最後の息の根を奪っているのは医療である。死ぬという主体的な行為は、その自己の力を失ってしまった。

死は一生の間対面すべきものから、一瞬の出来事に変化した。一つの全体の終りではなく、連続の途絶となった。

①長く生き残る能力
②死以前に隠退せずにいられること
③不治の状態であっても医療の助けを求めること
によって病気の新しい概念が作られる

「死の医療化を通じて、健康ケアは完全に異質分子のない一枚岩的な世界宗教となり、その信条は義務的学校で教えられ、その倫理的規範は環境の官僚主義的改造に適用される」(MN)

元来、病院とは健康の回復のためでも、健康改善する治療を施すための場所でもなかった。病院に烙印をおし、病気を悪化させ、悲惨さをはぐくむ場所であった。……病院が病気を治す場となるには、病気を一掃するという産業的イデオロギーがうまれてこなければならなかった。

「進んだ産業社会が病気を作成する(sick-making)というのは、それは人々の環境を処理する力を不能と化し、人々が倒れたとき、破壊された<関係性>のために「健康的」補綴で補うのである」(MN)

コスモポリタン的な文明は苦痛を無と化すために、主観的または間主観的な世界から痛みを切り離し、客体化する。痛みは、現在では自然な、形而上的な悪ではなく、人間がつくりだすもので、社会的な呪いと解釈されている。それにつれ、大衆が痛みに打ちひしがれているとき、大衆が社会を呪うことのないよう、その耐え難さをそらすために産業システムは医療的な痛み止めを大衆に与える。より多くの薬、病院、医療サービス、非個人的な諸団体によるケアへの要求に、痛みは変じてしまい、それゆえ人間的・社会的・経済的な根拠には手をふれず、ひたすら成長・発展を政治的に支持する結果をもたらしている。……つまり、人間・社会・経済の変革をするのではなく、痛みをとめる医療ケアを人々は要求するのである。

それでは文化の<意味の体系>における痛みとはどのようなものであろうか。それは、痛みの感覚を挑戦と理解し、その処理を通じて個人の体験を形成するものである。それは、痛みを苦悩へと変容し、耐える力を身につける自己自身に責任をもつ行為である。常に、自身を見いだし、自分の意識的な反応でもって身体についての主観的現実を形づくる。忍耐、寛容、勇気、あきらめ、自己制限、不抜、柔和さ、また、義務、愛、魅惑、日常の仕事、祈り、同情の世界がそこにくりひろげられている。痛みを必然と解し、耐え、治療するのでなく治癒するのが文化である。
 
痛みは遺伝的な所与としてまた刺激の性質や強度から体験されるだけでない。①文化、②不安、③留意、④解釈にも依っている。これらは、社会的決定因、イデオロギー、経済構造、社会的特徴から形づくられるのであって、現代医療のいうように<客観的>な項目ではない。こうした諸要因の規制の中で、文化は、痛みを本質的で、身近で、伝達し得ない、「非価値(disvalue)」と認知する。自律的行為としての使用価値そのものを形作る人間の内界の体系である。

<身体的痛みとは>「内在的で、身近で、伝達不能な、非価値として経験される身体的痛みとは、苦しむ人間が存在する社会的状況で自分自身を見いだす、というわれわれの気づきを含むものである。」
「痛みを悩むという行為は常にひとつの歴史的次元を有する」





「痛みは応答のないあるもののサインである」というイリイチは、孤独の世界で思考する人間と痛みを悩む人間とが類似しているという。「何が悪いのか?どのくらいつづくのか?なぜわたしは悩まねばならないのか、悩むべきなのか、悩みうるのか、現に悩めるのか?なぜこの種の災いが存在し、なぜわたしを襲うのか?」と。
 こうした苦悩する個人の行為は、一率の専門医学的な扱いをうけるようなものではない。鎮痛剤の鎮痛効果で処置できるようなものではない。しかしながら痛みを抹殺する産業的人間は、痛みを感じても、それを悩む能力をなくしてしまうのである。つまり、文化の構造を失ってしまうのだ。

医療発生病は、現実に耐え、それを自己統御する<政治>的自律を奪っているものとして、鋭く照射された。

専門エリートである医師は、同じ人間仲間が適応できない社会状態を批判しないで、むしろ病人となった個人は、「他の専門職者たちがエンジニア化し管理した環境に一致できないのである」(MN)と判定をくだし、可能な限りの適切な復帰対策を個人の病気を治療するために遂行する。病気が実体として認識されるという、その文明の様態それ自体は、このように政治的な安定化の方向づけをもったものである。

イリイチの臨床的医療発生病にたいする指摘は簡潔である。
①医師は治療に有効でない
②医学的治療は役に立たない
③医師の損害はさらなる医療化へと切り替えられている不当行為である
④そこで患者は全く無防備におかれている


医療―文化が人間相互の諸関係に与える形(shape)……それは、弱者、老衰者、幼若者、身体障害者、抑うつ者、躁者といった個人のあり方を動機づけ組織するものである。ある共同社会の弱者にたいして、医学が寛容さをもって非利己的援助を与えるならば、病者の苦悩を有効に弱め、しかもある方の社会的性格を別につくりだすことさえできる。かつての共同社会の文化を、例えば、<贈与関係>なども、産業的に解体することさえできるのである。


医療的諸処置がひとを呪い殺す「黒魔術」にかわるのは、「自己治癒の力を動員する代わりに、病人を気の抜けたものに変え、自分の治療にたいして神秘のベールをかぶせられた傍観者に変えてしまう」ときである。また「病める宗教」になってしまうのは、「病者が自分の苦悩にたいして詩的解釈を求めたり、あるいは、苦しむのを学んでいた人の中に尊敬すべき例を見出そうとするかわりに、病者の全期待を科学とその諸機能に集中させる儀式として、医療処置が実施されたときである。」

「どんな社会であれ、安定するためには、証明された異常が必要である」MN したがって、奇妙な様式や行動のおかしい者は、その共通の特徴が公式的に命名されて、人を驚かす彼の行動の仕方が一般に認められうる整理棚に整理されるまでは、破壊的であるとみなされる。名が付され役割が与えられることによって、変わり者は矯正・馴化されるか、あるいは排除される。


医療発生病とは、
1痛み、病気、死が専門技術的な医療ケアの結果として生じたときに<臨床的>であり、
2健康政策が不健康をもたらす産業的組織化を強化するときに<社会的>であり、
3医学が後押しする行動と妄想とが、人間が成育し、互いに愛し合い、年をとる能力を不能にすることによって、人々の生命力の自律性を制限するとき、あるいは、医療的介入が、個人の痛み、損傷、苦悩、死に対する反応を不能化するとき、<構造的>なものとなる。


健康とは痛みを殺し、病を排除し、生命をひきのばすことではない。痛み、病気、死を人生の不可欠の部分にし、この三者を自律的に処理し闘う能力が、健康という行為の基本であるのだ。人間は意識的に弱さ、個体性、関係づけに生きているため、痛・病・死はさけがたいものなのである。この自分の親しい内奥を管理的な扱いに託してしまうとき、わたしたちは政治的自律性を放棄し、健康を衰退させているのである。

交通

通い=trip
旅行=travel

より多くのエネルギーが輸送システムの手段に投じられると、輸送システムが平等に人々に分配されるのではなく、一部の特権エリートが気ままな旅行の生活時間を制限のない距離をこえて楽しめるようになる。その一方で多くの者は望んでもいない通いをいやいやながらしている他ないという、より巨大化したシステムの中のわずか断片をあちこち移動する存在に変わっていく。少数者の移動空間は魔法のじゅうたんにのった旅行である。一方で、多数者は、より長い距離をより早く移動できる旅行を得るために通いにもっと多くの時間を費やし、この通いで失った時間をとりもどすためにさらにより多くの時間を費やすように強いられる。


速度の加速化がよしとされる根拠は<時間>が交換価値となっているからである。移動に要する時間という存在は、時間それ事態を交換可能で価値あるものに構成し、その価値をより速いスピードによって高めている。「費やされ、セーブされ、投資され、浪費され、雇用され」る時間という言語表現は、時間が商品化されていることの表われである。さらに、時間に価格標がつけられると、加速化によって公正が保たれるという神話が発生する。
 自分の歩く力で動いている者が多いところは、「低開発」と定義されて、高速度の特権をより多くの者に分け与えるのが公正であるというようになる。モーター乗り物の速度によって、発展の度合いが測定される。個人の成功度合いを評価するだけでなkう、国家の発展も速度によって評価される。

1・根源的独占は、より多量なものへのアクセス権を有した者に利となる社会を再編制することによって設立される。
2・それは、すべての者に最小限の量を消費するように強いることで強化される。(なにがなんでも、モーター乗り物を使用するように強いる)


「低装備……各市民に一大の自転車がわりあてられておらず、自分の足で動くよりも五倍の速さでペダルを踏んで移動する条件がそろっていない。また、その道路がよく整備されていない。数時間以上の継続した旅を欲する者に、公的なモーター輸送が無料で与えられていない。」
「過剰産業化……社会生活が輸送産業によって支配されている。それが、階級的な特権を決定し、時間の欠乏を強化し、人々をはじきだす道路網やクルマに彼らをもっと結びつけようとする。」

人間の自律移動は、新陳代謝エネルギー消費という点で、すべての諸活動の土台である。モーター速度道路によって、ある階級からまっすぐ歩く道が奪われ、歩道橋や信号機によって統御されているとき、<安全性>の名の下で社会統制は「足の生活」から「頭の生活」までを貫徹しているのである。クルマが一台も走っていないのに、赤信号に立ちどまって群がっている産業適任g値は、完全に自分の行動を規制されている。それは赤ランプの記号に立ちどまって、政治の危機や生存の危機の赤信号には全く鈍感になっている人間の姿である。


「……文化発展の『最後の人々』にとっては、次の言葉が真理となるであろう。それは『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、かつて達せられたことのない人間性の段階にまで登りつめた、と自惚れるのだ』と」プロ倫

いかなる文化であれ、市場化されない使用価値を中心にして生活が構成されていた。今や自分で為し、自分でつくることはその価値を奪われ、価値を得ることに置換されている。人々が、処理し、遊び、食べ、友人をつくり、愛を交わしていた、そうした「下部構造」の中での生活は破壊され、生産経済的下部構造が土台となってしまった。標準化された商品・サービスが生産され、人々が消費者としてそれを期待し消費し充足するという生活のパターンは、「行為」の使用価値、自律共働的道具を後退させてしまったのである。


豊かな社会では、ほとんどすべての人は破壊的な消費者であり、何らかの形で環境の攻撃に関与し、成長に関する利害の強力な守護神ともなっている。そして、多数消費者は政治的多数者であり、多数者であれば力があるという神話がまた政治的行為を麻痺させている。モーター乗り物を必要とし、子どものために学校を必要とし、医療を要求し、他方で職業に不安を感じている、工場労働者やホワイトカラーやセールスマンや、さらに経営者や資本家までもが、ともに成長を擁護する選挙区の投票者として、なんとなく政治的に均質化されている。中流や中間層の幻想があるのではなく、成長を守る多数者の神話が政治的に構成されているという<政治>の問題で考えられるべきだ。
 したがって、成長に諸限界を設定しようと運動を起こす多数者などは存在しえないのである。

「魔術者や神秘学者を必要とせずに、苦悩と死に直面できる人々は、現在、教師や技術工学者や弁護士や司祭や党官僚によって実施されている期待の諸形態にたいして反乱することができる」

シトフスキーは「幸福は社会的なランキングに依るもので収入の絶対量によるものではない」と結論した。
ここからわたしたちが読みとれるのは、市場集中社会あるいは商品集中社会では、「ランク・ハッピネス」の感覚がつくりだされているという天である。ほとんどの個人的活動は収入を増やし、売りだされている商品やサービスを買い入れるアクセス権をえようとするものである。創造的な活動と非公式的な相互個人関係から由来する本来の満足は消え失せ、前世代よりもより高い「生活標準」を得ることによって満足感が達成されるという仕組みになっている。