「完全なる人間」A・H・マズロー

健康人の特徴
   
1.現実の優れた認知
2.自己、他人、自然のたかめられた受容
3.たかめられた自発性
4.問題中心性の増大
5.人間関係における独立分離の増大と、プライバシーに対するたかめられた欲求
6.たかめられた自律性と、文化没入に対する抵抗
7.非常に斬新な鑑賞眼と、豊かな情緒反応
8.非常に頻繁に生ずる至高体験
9.人類との一体感の増大
10.変化をとげた(臨床家は改善されたというだろう)対人関係
11.一段と民主化された性格構造
12.非常にたかめられた創造性
13.価値体系における特定の変化

何人かの分析者、とりわけフロムやホーナイには、神経症でさえ、成長、発達の完成、人間における可能性の実現へと向かう衝動の、歪められた姿と考えないと、理解できないことがわかってきた。

だれに人気があるのか、若者にとって近所の紳士気取りの俗物、カントリークラブの連中となら人気のない方がましである。なにに対して適応するというのか。堕落した文化に対してであるか。支配的な親に対してであるか、よく適応した奴隷をどう考えたらよいのか。よく適応した囚人はどうか。行動問題児でさえ、寛容の精神で見直されている。なぜ非行を犯すのだろうか。大部分は病的な動機からである。だが、ときにはよい動機から出ることもあり、この場合、少年は搾取、支配、無視、屈辱、蔑視に対して抵抗しているに過ぎないのである。

(自己実現した)このような人々は、独立自足的になる。かれらを支配する決定要因は、もはや基本的に内的なもので、社会的なものでも環境的なものでもない。それらは、かれら自身の精神的本性の法則であり、可能性や能力であり、才能、潜在性、創造的衝動である。自己を知ろうとする欲求であり、ますます統合し、一貫したものになろうとする欲求である。さらにまた、現実の自己や理想の自己、自己の使命、職業、運命を自覚するようになろうとする欲求である。

神経症は欠乏の病と見ることができる。したがって、治療のため根本的に必要なことは、欠けているものを与えるか、それとも、患者が自分でこれをみたすことができるようにすることである。これらの供給は、他人から生ずるものであるから、通常の療法は、対人的なものでなければならない。

アリストテレスの理論においては、AはAであり、それ以外のものはすべて非Aで、このふたつは決して一つにならないのである。しかし、自己実現する人から見ると、Aと非Aとは相互に浸透しあい、一体であり、人はだれでも同時に善であるとともに悪であり、男性であるとともに女性であり、大人であるとともに子供である。



人間の成熟の高い水準にあっては、多くの二分法、両極性、葛藤は融合し、超越し、解決される。自己実現する人間は、利己的であると同時に、利己的ではない。ディオニソス的人間であると同時に、アポロ的な人間である。個人的であると同時に、社会的である。合理的であると同時に、非合理的である。人と融けあおうとすると同時に、人と離れようとする、など。

神経症的人間も神のような高い立場から見ると、驚くほど入りくんだ、美しくさえある統一の過程として見ることができるのである。われわれが普通には葛藤や矛盾や分裂と見える事柄も、その場合には避けることのできない必然性をもち、運命的なものとしてとらえられる。つまり、かれが完全に理解されるならば、あらゆる事柄がそれぞれ必要なところに落ち着き、美的に見られ、鑑賞される。かれの葛藤や分裂は、すべて一種の思慮や叡智のしからしめるところであることがわかるのである。その徴候を、健康へと向かう圧力として、あるいは神経症を、その瞬間に個人の問題に対する最も健康で可能な解決方法として見るならば、病気と健康の考え方さえ、融合し、おぼろげになるのである。

至高体験の残効
1.至高体験は、厳密な意味で、症状をとり除くという治療効果をもつことができ、また事実もっている。……それらは非常に深いもので、ある種の神経症的症状をその後永久に取り除くほどである。
2.人の自分についての見解を、健康な方向へ変えることができる
3.他人についての件かいや、かれらとの関係を、さまざまに変えることができる
4.多少永続的に、世界観なり、その一面なり、あるいはその部分なりを変えることができる。
5.人間を解放して、創造性、自発性、表現力、個性を高めることができる。
6.人は、その経験を非常に重要で望ましい出来事として記憶し、それを繰り返そうとする。
7.人は、たとえそれが冴えない平凡な苦痛の多いものであったり、不満にみちたものであったりしても、美、興奮、正直、遊興、善、真、有意義といったものの存在が示されている以上、人生は一般に価値あるものと感じられることが多いのである。つまり、人生そのものが正当なものとされ、自殺や死の願望はそれほどあり得ないこととなる。

「自己を失うことは、どうしてできるのだろうか。気づかれもせず、考えもおよばない変節は、小児期に、人知れず精神的死をもってはじまる――愛されもせず、われわれの自然の願望が妨げられたとしたら、そのときに。(考えても見よ。何が残されているのか。)だがまて――これは精神の単なる殺害ではない。それは帳消しになるかもしれない。ちっちゃな犠牲者はこれを『乗り越えて進み』さえする――だが、かれみずからもまた、次第次第にはからずして、加担するというまったく二重の罪を重ねることになる。かれは、ありのままの人となりとしては、人びとが受け容れてくれない。ええ、人は受け入れられない状態にあらざるを得ないのだ。かれは自分でそれを信ずるようになり、ついにはそれを当然のことと考えるようにさえなる。かれはまったく、自分を断念するようになってしまう。かれが人々にしたがうか、それとも、しがみつき、反抗し、逃避するかはもはや問題ではない。――かれの行動、かれの行為が問題のすべてである。かれの重心は『かれら』にあるのであって、かれ自身にはない――それにもかかわらず、かれが注目したかぎりでは、十分に自然なことだと思っている。すべての事態が、しごくもっともらしく、すべては目に見えず自動的で、責任所在不明である!
 これはまったくの矛盾である。あらゆる事柄が正常に見える。どんな罪も意図されていない。死骸もなければ罪もない。われわれの見るところまったく普通に太陽は昇り、沈んでゆく、だがどうしたのだろう。かれは人々によって拒否されただけではなく、みずから拒んできたのである(かれには事実、自己がない)。かれは、なにを失ったというのだろう。まさに自己のまともな本質的部分、すなわち、成長への能力そのものであり、根本体系であるかれ自身の肯定感情を失ったのである。しかし、ああ、かれは死ななかった。生命は続くし、またそうしなければならない。かれがみずからを断念した瞬間から、それに、そうした程度で疑似自己をつくり、もちつづけようとしはじめる。だが、これは一種の方便である――願望のない『自己』である。この人は軽蔑するところだが、愛さなければならない(おそれなければならない)。弱いところだが、強いとしなければならない。喜びや戯れからではなく、生きるためにはそういう様子をして見せなければならない(ああ、しかしそれは戯画だ!)単に動きたいからではなく、したがわねばならないからである。この必要性は、生活ではない――かれの生活といえない――それは死と闘う防衛の機制である。それはまた、死のからくりでもある。現在以後、かれは強迫的(無意識的)欲求により引き裂かれ、(無意識的葛藤)により麻痺に陥れられ、あらゆる運動、あらゆる瞬間は、かれの存在、かれの統合を打ち消してゆく。しかも終始、かれは正常人としてみせかけ、そのように行動することを期待される!
 一言にしていうと、われわれは一つの自己体系である疑似自己を求めたり、防衛したりする神経症になること、われわれが自己を失うかぎり神経症であることをわたくしは知ったのである。」



いまや、あらゆる事柄が自然に生じ、心ならずして、労せずして、意図せずして、勢いの赴くところ流れ出すのである。いまや、かれの行動は全体的に、欠乏をともなわず、ホメオスタシス的でもなければ、欲求解消的でもない。苦痛や不快や死を避けようというのでもなければ、将来のうちに一歩つきすすんだ目標のためでもない。行動そのもののため以外に他意はない。かれの行動や経験は、それ自体のためであり、それ自体として正当化される。手段行動、あるいは手段経験ではなく、むしろ目的としての行動であり、目的としての経験になるのである。
 この段階でわたくしは、かれを神のような人間と呼びたい。なぜなら、大部分の神は、欲求もなければ願望ももたない。あらゆる事柄について、みたされねばならない欠乏も欠損もみられないからである。「最高」「最善」の神の特質、ことにその行為は、無欲無私によるものと考えられてきた。

人が真実であればあるほど、そのことによって、詩人、画家、音楽家、預言者等々の性格を帯びるようになる

自己実現とは、静的で非現実的で「完璧」な状態であって、そこではあらゆる人間的な問題から超越して、人々が永久に幸福な生活を超人間的な静穏と恍惚のうちにおくるもの、との誤った考え方が広くゆきわたっている。……自己実現は人格の発達と考えることが出来るが、それは、人が未発達からくる欠乏の問題や、人生における神経症の(あるいは小児的、空想的、無益、「非現実的」)問題から脱却し、人間生活の「現実」の問題(それは本質的、究極的に人間の問題であり、避けることのできない「実存」の問題で、これに対しては完全な解決はありえない)に立ち向かい、これに堪え、これととりくむことができるようになることである。つまり、自己を実現するということは、問題がなくなることではなくて、過渡的あるいは非現実的な問題から、現実的な問題へと移ることである。ショッキングにいえば、自己実現する人は、自己を受け入れ、洞察力をもつ神経症者ということさえできると思う。というのは、こういう言い方は、「本質的な人間状況を理解し、受け入れる」こと、つまり、人間性のもつ「欠陥」を否定しようとするのではなく、これと立ち向かい、勇気をもって受け入れ、これに甘んじて楽しみさえ見出すというのと、ほとんど同じだからである。

私の回顧的な印象では、最も完全な人は、多くの時間、日常生活と呼ばれるもの――買い物をしたり、食事をとったり、挨拶をしたり、歯医者へ行ったり、金銭上のことを考えたり、黒靴にしようか茶靴にしようかと考えあぐんだり、つまらぬ映画に行ったり、週刊誌を読んだり――のうちで過ごしている。

どのような動物でも、自由に選ぶことのできる十分な選択場面が与えられると、自分のためになる食物を選ぶことのできる先天的能力が一般に見られる……高等動物や人間の、毒物に対してみずからを守る力は、下等動物に劣る。以前につくられた好みの習慣は、現在の代謝欲求をまったく消してしまうかもしれない。しかしなににもまして、人間においては、ことに神経症的人間においては、この身体の叡智は、まったく失われてしまうほどではないけれども、さまざまな影響力によって歪められているのである。この一般的な原理は、ただ単に食物を選ぶ場合にだけあてはまるものではない。ほかのあらゆる身体的欲求についてもいえる。

神経症の人々の選択は、主として神経症を安定させるにはなにがよいかを示すことができるのであって、それは脳損傷者の選ぶところが、破局的な崩壊を免れるのによいものであったり、腎上体切除をおこなった動物の選択が、健康な動物であることをやめてもかれが死を免れるためのものであったりするのと同じことである。

自分で食物を選ぶニワトリは、自分にとってよいものを選ぶ能力に大きな差異のあることを示している。よい選択者は、まずい選択者よりも強く大きく育ち、支配的になるが、このことはニワトリが最もよいものを手に入れているからである。そこで、もしもよい選択者によってえらばれた食物をまずい選択者に与えると、よい選択者の水準までは達しなくとも、こんどは彼らが強く大きく健康になり、支配的になることがわかるのである。

基本的欲求満足は、往々にして物体、所有物、財産、金銭、衣服、自動車、その他の満足の意味にとられがちである。だが、これらはそれ自体基本的欲求を満足させるものではない。基本的欲求の満足は、身体的欲求がみたされた後には、①庇護、安全、防衛、②家族、コミュニティ、派閥、仲間、愛情、恋愛といった所属、③敬意、尊重、是認、威厳、自尊、④人の能力や可能性の最大限の発達、自己実現の自由、が求められる。このことは、ずいぶん簡単なようにみえるが、やはり世の中どこであろうとも、その意味を会得することのできる人はわずかであるように思われる。

やかましやの能力は使われなければならない。それらがよく使われたときにのみ、そのやかましやはやむのである。つまり、能力はまた欲求でもあるのである。……使われない技能や能力や器官は、病気の中心となり、あるいは委縮したり、消滅したりする。そしてついにはその人格を縮小させることにもなるのである。

精神の疾患を自己実現への成長の阻止、回避、おそれとしてとらえるか、それとも、腫脹、中毒、細菌が人間とは無関係な外部から侵入するのと同じように、医学的な方式で考えるかは、微妙ではあるが極めて重要な相違である。

神経症的欲求や情緒や行為は、人にとって能力の喪失であり、かれはそれをもってまわった不満足なかたちでしか為しえなかったり、為そうとしないのである。そのうえ、かれは大抵、その主観的快適さ、意志、自制心、快感能力、自尊心などを失っている。かれは人間として委縮された存在なのである。