フーコー 知と権力/桜井哲夫

フーコーは、カンギレム論の最後の方で、「ニーチェは、真理とは、最も深みのある嘘だと述べた。このニーチェの立場に近くもあり遠くもあるカンギレムなら、おそらく、真理とは、生命の長大な暦の上での、最も新しい誤りだといっただろう」

狂気は、未開の状態では、発見されることはありえません。狂気は、ある社会のなかにしか存在しないのです。つまり、狂気というのは、狂気[とされるもの]を孤立させるような感情のあり方、狂気[とされるもの]を排除し、つかまえさせるような反感(嫌悪)のかたちがなければ、存在しないのです。こうして、中世において、そしてルネッサンスにおいても、狂気は、一つの美学的ないし日常的な事実として社会の視野のなかに立ち現れていたのだと言えます。そして、十七世紀において――ここから監獄が始まります――狂気は、沈黙と排除の時代を経験することになります。

ミリュー
狂気が生まれたのは、人間が、動物たちのような自然に従った生き方を捨て去って、自然の秩序に反するような社会環境・社会的諸関係を作り出したからである。かつて、自然からの警告だの、危険が迫ったことへの身体的、精神的な反応だのととらえられた時代とは違って、狂気は、ある出発点をもって、しだいに、人間をとりまく社会的諸関係・社会環境が複雑に、不透明になればなるほど増大してゆく病理となってゆくのである。

結局、私は十九世紀においては、解釈は、あなたが治療と呼んで理解しているものに確かに近いものだったと考えています。十六世紀では、解釈は、啓示だの救済だのと言った側に意味を見出していたのです。私は、ここで、あなたに、ガルシアという名前のある歴史家の言葉を引きたい。彼は、1860年に次のようにいったのです。「われわれの時代から、健康が救済にとってかわったのである。

「物事を解釈するよりも、解釈を解釈する仕事の方が多く、書物に関する書物の方が多い」モンテーニュ

マルクスは、「価値」について批判的解釈を行い、ニーチェは、ギリシャ語のいくつかの言葉の批判的解釈をおこなった。フロイトは、明確な言葉にならない夢や幻覚を批判的に解釈しようとした。だが、彼らがおこなったのは、言葉に埋め込まれた根本的な真理をとらえるためではなく、われわれが、言語が生み出しているいかなるイデオロギーによって支配されているかということを暴くことなのだった。

フーコーは、言語がなんら特殊なものではなくなった(平準化)結果生まれた最も思いがけない出来事は、「文学」の出現だと述べる。紙の上にひたすら言葉を書くという沈黙の行為、自己以外何も語るものもなく、もっぱら、それ自体のために存在するものとしての「文学」は、まさに、近代の産物である。そして、かつてのように神によって創造された世界というテクストを読み込むというような営為とは無関係に、近代文学は、「出発点も終点も見込みもないままに成長してゆく」(第一部第二章の結びの表現)

十八世紀末以前には、「人間(ロム)」なるものは存在しなかったのである。(……)それは、二百年たらずま絵に、知(学問体系)という造物主(デーミウルゴス)がおのれの手で作り出した、まったく最近の被造物なのである。

フーコーは、カンギレムの「概念の歴史」を忠実に継承しながら、近代の学問体系(知)が設定する「人間」という価値基準が、その裏に「非人間」という存在を前提としていることを暴こうとした



長いこと、ぼくは髪の毛がなくなってゆくせいで打ちのめされていた。だけど、頭を剃ると決めたときから、二度と髪の毛のことは考えなくなったんだ。 とモーリスパンゲに打ち明けた(「徒弟修行の時代」)

社会関係のなかに人が存在して、そのなかで動かされていることを認めず、自律的な存在として自分をコントロールできると思いこむことは、他人をも簡単にコントロールできると思い込むことにつながる。全体主義というのは、そうした自己コントロールの思想の延長上にあると考えるべきである。自己開発だの、自己啓発だのという心理的コントロールが、全体主義的テクニックだというのは、そういう意味である。

知識人の役割は、もはや、誰もが口にしない真理をいうために、「少し前に、あるいは少し横に」位置することではないのだ。それは、むしろ、彼が、権力の対象となり、かつその道具にもされている場所で、権力の諸形態に対して戦うことにあるわけだよ。つまり、「学問体系(知)」「真理」「意識」「言説」といった領域のなかで戦うことなのだが。(ジル・ドゥルーズとの対談「知識人と権力」の中で)

身体刑が残虐だった理由……フーコーは、その要因を、君主という権力が自己を表明する儀式として、処罰はおこなわれたからだ、と述べる。犯罪は、法令を布告する人間(君主)の権利を侵し、傷つける行為なのであって、……傷つけられた君主権を回復する行為なのである。
十八世紀における刑罰改革の骨子は、君主による報復という目標から、社会の掟の擁護という目標への変換とつながっている。……犯罪者が重ねて悪事を働かないように、また悪事を模倣する者が出ないようにすること

「労働は、近代人にとっての神の摂理(proviedence)」

「規格化を行う処罰(サンクション)について」
◇処罰は、以下のような意味合いをもって実行される。
◇わずかなミスでも処罰されることが一般化されることで、子どもに自分がおこなった罪を認識させる。
◇水準に達しないこと、規則からの逸脱など、不適合なものという領域も処罰の対象となる。
◇逸脱をなくすという機能を持つ。個人の欠点の矯正を義務の繰り返しによって行う。
◇処罰は、一方で褒賞(ほめる)という形式と一体になっている。処罰と褒賞の図式は、そのまま個人の評価形成の材料となる。
◇処罰は、逸脱をあきらかにすることであり、能力や適性を明示し、階層序列を正当化するものである。

試験とは、いわば「規格(一定の基準)」を中心とするものの見方であり、個人の能力を量として測定し、資格を与え、階層序列を決める権力の儀式である。そこでは、見られているのは、受験生(臣下)であって、権力者(君主)ではない。受験生は絶えず見られていることになる。そして、それぞれの試験の成績が文書として整理され、個人は「一つの事例(un cas)」として登録されているのである。


①権力は、無数の点から出発し、不規則で一定しない諸関係によって成立するゲームのなかで機能する(見に見え、奪い取れる具体的な実態ではなく、揺れ動く諸関係のなかでそのつど作りだされるものである)。
②権力の諸関係は、経済、学問、性といった減少が生み出している諸関係の外にあるものではなく、そうした諸関係のなかに作りだされているものである。
③権力は、下部からくる。支配するもの、支配されるものという古典的な二項図式は否定される。社会の基盤にある家族や会社、サークルなどの小集団のなかで生みだされる力の関係が、全体を統括する権力関係の基礎となる。
④権力をふるうのは、特定の個人でもなく、特定の司令部でもない。あくまでも、諸関係のなかで、その作用によって権力が行使されるにすぎない。
⑤権力の外部に抵抗があるのではなく、抵抗は、あくまでも権力の内部にある。一つの固定した抵抗の拠点があるのではない。あくまでも、諸関係の網の目のなかで、不規則に発生するのが、抵抗であり、権力は、この不規則な抵抗を完全に排除することはできない。そして、この抵抗点が、戦略に結びつけられて作動したとき(つまり、権力の諸関係の網の目が崩されたとき)、革命が可能になる。

中世においては、「教会―家族」という組み合わせが人々を支配してきたが、現在では、「学校―家族」という組み合わせが人々を支配している。つまり、家族と学校がグルになって、人々を自発的に服従させているのである。

17世紀以来、「生」に対して、権力は、二つの形態で発展してきた。
①人間の身体のアナトモ・ポリティック(解剖学的社会学)
 人間の身体を管理し、調整し、訓育し、社会システムに適応させる。
②人口を形成する住民のビオ・ポリティック(生を管理する政治学)
 住民の出産管理、健康の管理、死亡率の軽減政策、衛生管理など。

かくて、「生に関する権力(bio-pouvoir)」の時代が始まったのだ

「性」は、「生殖=人口増大」と「性的逸脱を規律する規制」の双方に関わる問題であるがゆえに、権力にとって重要性を増したともいえるのである。かつて、「血」は、地位世襲における血筋の尊重、流血による権力維持、血盟などに表されるように、権力を象徴するものであった。だが、近代社会は、こうした「血の社会」ではなく、身体管理と結びついた「性(セクシュアリテ)」こそが、意味をもつ社会となったのだ。だからこそ、性は、過剰なほど語られ、性への欲望は、際限なくかきたてられることになる。
だから、性を肯定するとか、積極的に語るとかは、解放でもなんでもない。むしろ、それは、性への欲望をかきたてている権力の装置(ビオ・ポリティック)にわれわれが、からめとられているという現実を映し出すだけだ。

性(セクシュアリテ)に対する反攻(コントル・アタック)の拠点は、欲望としてのセックスにあるのではなく、身体と快楽(les corps et les plaisirs)なのである。

近代国家は、新しい政治形態のなかに、古いキリスト教の権力技法、すなわち司牧システム(パストラ)を導入したのである。この近代の司牧権力(pouvoir pastoral)は、国家の人口を構成する住民の健康、福祉、安全を守る(現世での救済の保証)システムであり、この結果として、官僚層が増大し、十八世紀にいたって、警察機構が成立した。……

ヘブライのシステム……
①羊飼いは、土地に対してではなく、羊に対して権力をふるう。
②羊飼いは、羊を集め導く。羊飼いがいないと、群れはばらばらになる。
③羊飼いの役目は、自分の羊の群れの救済を確実なものにすること。個別的に羊の上と乾きを満たすべく、気配りをする。
④羊飼いは、羊の群れに対して献身的である。群れの至福のためにどのようなこともする。

古いキリスト教の司牧システム……
①キリスト教では、羊飼い(司祭)は、ヘブライと同じく個々の羊、全体の羊のことを考えねばならなかったが、さらに、個々の羊の行動や彼らが起こす問題すべてを引き受けねばならなかった。
②キリスト教では、羊飼いと羊の関係を個別t系に結ばれた関係であって、しかも個別的な従属関係とみなした。
③キリスト教では、羊飼いは、個々の羊の状態を把握し、内面をもおさえねばならないとされる。そのために、羊たち(信者)の良心を問いただし、教え導く手段を開発した。
④告白、自己糾明などのキリスト教の技術は、個々に自分を責めさいなむ苦行(モルティフィカシオン)を強いる。この世と自分自身への断念を確認させるものである。

近代国家は、新しい政治形態のなかに、古いキリスト教の権力技法、すなわち司牧システム(パストラ)を導入したのである。この近代の司牧権力(pouvoir pastoral)は、国家の人口を構成する住民の健康、福祉、安全を守る(現世での救済の保証)システムであり、この結果として、官僚層が増大し、十八世紀にいたって、警察機構が成立した。……

おそらく、今日、主要な目的は、われわれが何者であるかを発見することではなく、われわれの今のあり方を拒否することである。近代権力構造の個別化であると同時に全体化でもある、この一種の政治的な「二重拘束(ダブル・バインド)から抜け出すために、われわれが何者でありうるのかを想像し、それを具体化しなければならない。
 現代の政治的、倫理的、社会的、哲学的な問題は、国家及び国家の諸制度から個人を解放することではなく、国家と、国家に結びつけられた個別化(individualization)のタイプの両方からわれわれを解放することであると述べて、結論としたい。われわれは、数世紀にわたって、われわれに押しつけられてきた、この種の個人性を拒否することによって、新しい主体性の形態を作り上げねばならないのだ。(「主体と権力」)

フーコーがひとをとらえて離さないのは、個人の苦悩の探求が、社会を知りたいという欲望と結びつきうるのだ、という事実をフーコーが明らかにしたからなのである。

かつて、医者は患者に「どうしたのですか」とたずねた。だが、十八世紀末に、新しいものの捉え方、まなざしが生まれ、「どこが悪いのですか」という問いかけにかわった。……つまり、この問いかけには、病を全身的なものとみなす立場から、人間の身体を「機械のように多くの部品で作られているもの」とみなす立場への変化が語られているのである。

十九世紀以後、女性の身体の管理、子どもの性的行動の管理、生殖行為の管理を通じて、国家権力にとって、(近代的)家族こそが、性的な欲望を生み出し、支え、根付かせる重要な装置となった。したがって、適応できない病者を家族に適応できるようにすることが、精神科医の仕事となるわけである。「性に関する権力(ビオ・ブーヴォワール)」の時代の中で、身体管理と結びついた「性」は重要なものとされ、だからこそ、性への欲望をかきたてるためにも、性は語られ、書かれなければならないのだ。