「禅とオートバイ修理技術」ロバート・パーシグ

おそらく私たちは、本当の生活は都会のなかにあり、いま目にしているこのすべては単なる田舎の退屈な風景にすぎない、と思い込んでいたようである。おかしな話である。真理がやってきて扉を叩くと、「あっちへ行け、私は真理を求めているのだ」と人は言う。だから真理は立ち去ってしまう。不思議なことだ。

科学の神殿のなかにはたくさんの住まいがある……そしてそのなかに済む人びとも、彼らをそこへ導いてきた同期も、まことに種々雑多である。()主の御使いにの意に適った人びとは……一風変わった、人と打ち解けない、孤独な人間である。追い払われた大勢の連中に比べれば実際、残った人びとのほうがそれぞれかなり個性的である。

彼らを科学の神殿へと向かわせたものはいったい何か……それは日常生活からの逃避、痛ましいほど不完全で、絶望的なほど単調なこの生活からの逃避であったろう。そして自己のうつろいやすい欲望の足かせから解放されることであった。繊細な気質を持った人ならば、この世界の騒々しさと束縛から離れて、鉱山の静寂のなかへ逃れたいと憧れる。そこへ昇れば、眼差しはしんとして澄み渡る大気の中を字油に漂い、一見永遠にわたって築き上げられたかのように見えるもの静かな山々の輪郭を、心をこめて辿ることができるのである。

もし人間の知識のすべてが巨大なヒエラルキーを構成しているとすれば、精神の高地は、最も一般的かつ抽象的な考察において、その最上部に位置している。
しかしここに足を踏み入れる人はほとんどいない。そうしたところで何の実益もえられないからである。だがここには、この物質世界同様、それ特有の厳粛な美がある。ここを旅する人にとってその辛苦が報われるのは、この美あればこそなのだ。

完全な確信を持っていることに身を捧げる人は決していない。明日もきっと太陽が昇ると熱狂的に騒ぎ立てる人はいないはずである。……政治的あるいは宗教的心情に、そしてまたそのほかの教義や目的に熱狂的に身を捧げるのは、耐えずそれらに疑問を抱いているからなのである。

芸術と工芸とを分離するのはまったく不自然なことだ……遠い昔のことだが、回転肉焼き器の組み立て方だって、実際は彫刻の一部分だったのさ。

現代の理性は、地球が平らだと考えていた中世期の理性と大して変わりがない、と私は思っている。理性を超越してしまうと、向こうの世界、つまり狂気の世界に落ち込んでしまうと思っている。そしてだれもがそれを非常に怖れている。この狂気に対する恐怖は、かつて人びとが抱いた地球の端から落ちてしまうという恐怖に勝るとも劣らない。

目標に至る精神の軌跡を自然の山に譬えることは、ごく自然な試みかもしれない。しかしほとんどの人は、この渓谷に住んでいる人たちのように、その山を目前にしながらみずからは決して足を踏み入れようとしない。ただ、かつて底を歩いた人たちの話に満足げに耳を傾けている。彼らはこうして身にかかる苦難を避けているのだ。なかには熟達したガイドに伴われて山に入り、目的地に到達する人もいる。また何の経験もないのに闇雲に自分の道を切り開こうとする者もいる。だがこうした人のほとんどは目的地を前に挫折してしまう。しかし希には、純然たる意志と、運と、神の恩寵によってその目的を成就する者がいる。いったん頂を極めれば、そこに至る道は限りなく見えてくる。


あるクラスの授業で、学生全員に丸々一時間を費やして自分の親指の甲について書かせた。最初はどの学生も妙な顔で見ていたが、「何も書くことがない」と文句を言う者は誰一人なく、みなそれぞれにペンを走らせた。……いったん自分本来の目で者を見るこつを把握してしまえば、その表現には限りがない。

模倣は絶対悪である。


「目標を意識せずにひたすら昇っている人が、。最も高いところにいる」クロムウェル

実在論:「ある事物がなければ世界が正常に機能しないとすれば、それは確かに存在する」

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな……三位一体」モンタナ州立大学の廊下や大講堂の階段を歩きながら、ひとり静かに、声をひそめてパイドロスはこう口ずさんでいた。

芸術とは高いクオリティを求め尽くすことである。
もっと仰々しい言い方をすれば、「芸術とは、人間の創造物に顕示される神性である」とも表現できる。

事実は一般的であればあるほど、それだけいっそう貴重である。

何を書こうかと迷って立ち往生してしまうのはごく普通のことだ。一度にたくさんんおことをしようとすれば、だいたい行き詰まってしまうものだ。肝心なことは、無理に言葉を引き出そうとしないことだ。

心の落ち着きは、技術的作業にとって決して表面的なものではない。これこそが重要なのである。心の落ち着きを生みだす物は、優れた仕事であり、それを破壊する者は、悪い仕事である。()心の落ち着きこそが例の≪クオリティ≫を知覚するための前提条件だからである。()良いと思われるものを見抜いて、その理由を理解し、作業のなかでこの良さと一体になることが、内なる安らぎ、つまり心の落ち着きを培い、ついにはその良さを輝き出させるのである。

覇気というこの言葉が≪クオリティ≫に通じた人の状態を的確に表現していることである。古代ギリシャ人はこれを「エンスージアスモス」と呼んだが、それは文字通り「テオス」、つまり「神に満たされた」という意味である。()
覇気満々の人びとは、無為無策のまま、放埒をきわめたり、物事に気をもんだりはしない。自己認識という列車の前面にいて、常に軌道の先を見据えて、何がきてもそれを真っ向から受けとめる。それが覇気である。

たとえば、コンピューター回路の電圧は、「1」か「ゼロ」しか示さないと繰り返し言われてきたが、そんなバカげた話があるものか!()電源を切ったとき、電圧が「1」を示しているか、それとも「ゼロ」を示しているか、よくみてみるがいい!回路は「無」の状態にある。1でもなければ、ゼロでもない。

イギリスの哲学者ホワイトヘッド「あらゆる哲学はプラトンの脚注にすぎない」

これまこの世界に損害をもたらしてきた一台原因は古代の人びとの思想を無意識に受け入れてきたことにある、と断じた者が誰一人いなかったことである。

……この景色のすべてがこれほど愛しく思えるのに、どうして私が狂気でありえようか?……
……そんなことが信じられるものか!
神話。これこそが狂気なのだ。パイドロスはこう信じていた。神話は、この世界に形式は実在しても、≪クオリティ≫は実在しないと説く。これこそが狂気でなくて何であろうか!だからパイドロスは、アリストテレスと古代ギリシャ人達こそが極悪人だと思ったのだ。何しろこんな奇形の神話を形成しておきながら、これを――この狂気を――真の実在だと思わせようとしたのだから。

コールリッジ「人はみなプラトン主義者かアリストテレス主義者のいずれかである」


形式と型にはまった表現は、優れた人間が最も嫌い、出来の悪い人間が最も好む者である。