個人と社会 / オルテガ・イ・ガセット

自分たちが生きていることに初めて気づいたときにはすでに、われわれは他者と共に、そして他者の真ん中にいるばかりでなく、他者になじんでいるからである。そしてこの事実は、われわれに次のような最初の社会的公理teorema socialの定式化をゆるす。すなわち人間は生まれながらにして a nativitate 他者に、見なれぬ存在者に開かれたものである。
つまり、a nativitate他者に、自分とは異なる物alterに開かれている人間は、a nativitate、好むと好まざるとに関わらず、好悪の別なく、利他主義者なのだ。

孤独の中で人間は自己に真実である。

哲学とはひきこもりanabasisであり、自分自身に向かって自己を容赦なくさらけだすことによって、自分自身の収支決算をすることである。他人の前では、われわれは完全に裸でないし、また裸でいることもできない。つまりもし他人がわれわれを見ているならば、その他人のまなざしはすでにわれわれの眼からわれわれ自身を覆ってしまうのである。

つまり哲学はシェンシア(科学)ではなく、インデセンシア(不謹慎なこと)である。というのは、それは物や自分自身をまったくの裸に、一糸まとわぬ姿――物や私の純粋の姿――にすることだからである。厳密に言うなら(sensu stricto)諸科学は決して純粋な認識ではなく、単に物を巧妙にあやつり利用するための実利的技術にすぎない。しかしながら哲学は、物についての恐ろしくも孤独な、そして寂しい真理である。

神の現存は本質的不在より成り立っている。神はまさに不在者として現前するもの、あらゆる現前の中で光輝く――その不在によって輝く――巨大な不在者であり、神を証人として召喚するときの神の役割は、物とわれわれとのあいだに、それら物を覆ったりぼかしたり、あるいは他のものに見せかけたり隠したりする何ものも、また何人も介在しないように、われわれを物の現実の中にひとりとり残すことである。そして物とわれわれとのあいだに何もないということ、これこそが真理なのだ。

行動はそれに先立つところの観想によて律せられていないならば不可能で有り、またその反対に、自己沈潜は未来の行動を立案する以外のなにものでもないのである。

叫び声があがるところに良き認識はないDove si grida non e vera scienza ダヴィンチ

だれでも

「社会」という実在は、その根からして肯定的な意味と同時に否定的な意味を帯びているのである。

全て他の人間存在はわれわれにとって危険である。

デュオニソスは生まれ落ちてまもなく、船乗りも水先案内もいない船に乗せられて、東洋から辿り着いたことになっている。

具体的自我は、なんじたちの後に、そして彼らの中にもうひとりの汝として生まれるのだ。それは根本実在並びに根本的孤独としての生の中ではなく、共存という第二の実在の局面に生まれるのである。

われわれは、この世に生をうけて以来、慣習という大海の中に沈められて生きているのであり、そしてこれら慣習はわれわれの見いだす最初の、そしてもっとも強力な実在であると言うことができる。すなわち慣習は厳密な意味でsensu stricto われわれの社会的環境もしくは世界であり、われわれがこの中に生きるところの社会なのだ。われわれはこうした社会的世界あるいは慣習を通して、人間および事物の世界を、宇宙を見るのである。

慣習というものは、きわめて個性的(ペルソナル)な人間が、つねに古風で、乗りこえられたもの、古くさくすでに意味を失ったものとして感じる生の形式である。

愛は多弁で、小鳥のさえずりのようなものだ。愛は雄弁である。だからもし恋する者が、物言わぬとき、それはそれ以外に方法がないからであり、異常なほど口べただからである。

人間は社会的であると同時に、本来また非社会的であり、彼の中には意識的であれ無意識的であれ、つねに社会からの逃避に対する強い衝動がある。

言語活動の起源を明らかにするためには動物学的功利主義では不十分である。
外部に有り外部に起こるあるものと結びつけられているしるし、そしてわれわれが知覚することのできるしるしだけでは十分でハンク、彼らひとりひとりの中に、彼自身の「内部」でひそかにわき返っているもの――幻想的内部世界――を他の者に示したいという押さえがたい必要性、告白したいという叙情的必要性を推定することが必要なのである。だが内部世界のことはとらえることができないものなので、「それらを示す」だけでは足りない。単なるしるしは表現に、すなわちそれ自身の中に意味、意義をかかえている一つのしるしに変わらなければならなかったのだ。「そこに」、すなわち周囲にないことについて「言うべきことをたくさん持っている」動物だけが、信号のレパートリイだけでは満足できず、そうしたレパートリーが示す限界にぶつかるのである。そしてそうした衝突が彼に限界を超えさせる。奇妙なことには、言語活動の「工夫」を余儀なくすると思われるそうした不十分な伝達の手段との衝突が、言語活動の中で永続し、絶え間のない一連の小さな創造において働き続けるということである。それはその内心に起こった新しいこと、そして他の者たちが見ていない新しいことを述べようと望む個としての人間と、すでにできあがった言語とのあいだの絶え間のない衝突――話すこと(デシール)と語ること(アブラール)のことのあいだの実り豊かな衝突――である。

真の意味で社会的なる者は、個人の上に及ぼされる圧力、強制、命令であり、したがって統治である。

われわれは、少数の指導者層が大衆を不精から引きずり出す試みを繰り返したこともないのに、対数の無気力をせめることができるということが理解できないのである。

慣習や習慣は、われわれの生の大部分において、われわれのしなければならないことをすでに解決済みのものとして与えてくれる。したがってわれわれは、個人的かつ創造的生を他の方向に集中することができる。つまり社会は人間を創造的生に向かって解き放ってくれるのである。