ソクラテス「はたして自分は、テュポンよりもさらに複雑怪奇でさらに傲慢凶暴な一匹のけだものなのか、それとも、もっと穏和で単純な生き物であって、いくらかでも神に似たところのある、テュポンとは反対の性質を生まれつき分け与えられているのか、とね。」
まことに、この天のかなたの領域に位置を占めるもの、それは、真の意味においてあるところの存在――色なく、形なく、触れることもできず、ただ、魂のみちびき手である知性のみが観ることのできる、かの≪実有≫である。真実なる知識とはみな、この≪実有≫についての知識なのだ。されば、もともと神の精神は――そして、自己に本来適した物を摂取しようと心がけるかぎりのすべての魂においてもこのことは同じであるが――けがれなき智とけがれなき知識とによてはぐくまれるものであるから、いま久方ぶりに真実性を目にしてよろこびに満ち、天球の運動がひとまわりして、もとのところまで運ばれるその間、もろもろの真なるものを観照し、それによってはぐくまれ、幸福を感じる。ひとめぐりする道すがら、魂が観得するものは、≪正義≫そのものであり、≪節制≫であり、≪知識≫である。この≪知識≫とは、生々流転するような性格をもつ知識ではなく、また、いまわれわれがふつうあると呼んでいる事物の中にあって、その事物があれこれと異なるにつれて異なった知識となるごとき知識でもない。まさにこれこそほんとうに意味であるものだという、そういう真実在の中にある知識なのである。
――狂気という。しかり、人がこの世の美を見て、真実の美を想起し、翼を生じ、翔け上がろうと欲して羽ばたきするけれども、それができずに、鳥のように上の方を眺めやって、下界のことをなおざりにするとき、狂気であるとの非難を受けるのだから。……この狂気こそは、すべての神がかりの状態のなかで、みずから狂う者にとっても、この狂気とともにあずかる者にとても、もっとも善きものであり、またもっとも善きものから由来するものである、そして、美しき人たちを恋慕う者がその人は「恋する人」(エラステース)と呼ばれるのだ、と。
まことに、運命のさだめは、悪しき者が悪しき者と真の友となることも、さらに、善き人が善き人と友にならずにいることも、けっして許さない
話というものは、すべてどのような話でも、ちょうど一つの生きもののように、それ自身で独立に自分の一つの身体を持ったものとして組み立てられていなければならない。したがって、頭が欠けていてもいけないし、足が欠けていてもいけない。ちゃんと真ん中も端もあって、それらがお互いどうし、また全体との関係において、ぴったり適合して書かれていなければならないのだ。