言葉・狂気・エロス/丸山圭三郎

 人間は言葉をもつが故に本能図式がこわれており、動物の知らないカオスを生ぜしめ、これをまた言分けて意味化せねば生きていけない。つまり人間以外の<可換的行動形態>(メルロ=ポンティ)に属する動物(=信号を用いる動物)においては完全であるはずの本能図式=行動様式が破綻しているために、生のエネルギーがもはや生物学的に文節しきれずカオスとなって登場し、これが私たちの欲動となっているのである。


私たちは抑圧に失敗したために神経症になるのでもなければ、棄却に失敗したために精神病になるとだけは言い切れない。その正反対に、これらが成功しすぎたために、つまりは強すぎる抑圧によって自我を防衛し、深層意識にあるさまざまな欲望が日常の表層意識に回帰不能となったために、さらには深層意識の核となるはずだった原初的イメージをも棄却・排除してしまったために狂気に陥るとも言えるのではないだろうか。

ある土地に囲いをして、『これはおれのものだ』と最初におもいつき、それを信じてしまうほど単純な人びとを見つけた人こそ、政治社会の真の創立者であった(「人間不平等起源論」ルソー)

私たちはすでに、アドルムなどの中毒症状に苦しんで狂気に近い日々を送っていた坂口安吾が、同じ時期に書いた『火』という作品には、微塵の錯乱の陰もなかったことを知っている。安吾にとってもジューヴと同じように、<書く>ということは欲動のパトスを理性のもとでロゴス化する営為であり、それはあくまでも意識的に<夢>を見ること、そして<読む>人びとをもカオス・コスモス・ノモスのあいだの絶えざる円環運動に参入させる命がけの所作であったに違いない。

マクベスの魔女「きれいはきたない」

モーリス・ブランショ「まことに<文化という記号>はオリジナルなものなどはなく、迂回と回帰の輝きの中で、オリジンの不在が散乱する永劫の煌めきの世界」としてのシミュラークルであり、ヴェールである。しかしヴェールの下にはもう一つのヴェールしかなく、文化のヴェールとはその下に素顔がないことを隠す仮面であることに気づかねばならないだろう。




「動物は死とは何かをまったく知らないだろうから。死とその恐怖についての知識は、人間が動物的状態から離れるとき最初に得た物の一つなのである」ルソー

人間はただ死においてのみ、一切の個別性を超えて大きな連続性のなかに解き放たれる。私たちは失われた連続性へのノスタルジーをもっており、エロティックな行為の絶頂において、わずかに死による連続性の等価物を手に入れることができるのだろう」バタイユ

サルトルに限らず、意識の明証生を重んずる西欧知の表街道の学者たちは、まことに長い間<意識以前>を学問の対象とすることを拒否していた。その理由のひとつは、……「主体の意識をのがれるものを対象化することは不可能である」という考えが支配的であったことに見出される。ギリシャ古典期からヘーゲルに至る西欧形而上学の思考形式は、一貫してこの<対象化思考様式>であったのだから、意識野に現前しない<無意識>が学問の領域から閉め出されたのも当然と言わねばならないだろう。

「無意識を構造の壊れた意識であるとみなしてこの観念を精彩のないものにしてしまうか、あるいは、無意識を厳密な意味での実在であるとして、精神現象の奥にある原動力であると想定するかという二者択一を、哲学者は迫られていない。こうした二者択一こそ、デカルト的な考え方から生じた先入観を維持するものであって、フッサールが明らかにしたように、精神現象を物質界をモデルにして、因果関係で結ばれた出来事のつらなった織物であるかのようにみなす神話を築くことになる」『無意識』メルロ・ポンティ

「言語意識の深層には既成の意味というようなものはひとつもない。時々刻々に新しい世界がそこに開ける。言語意識の表面では、惰性的に固定されて動きのとれない既成の意味であったものさえ、ここでは概念性の留め金を抜かれて浮遊状態となり、まるで一瞬一瞬に形姿を変えるアミーバーのように伸び縮みして、境界線の大きさと形を変えながら微妙に移り動く意味エネルギーの力動的ゲシュタルトとして現れてくる」『意味の深みへ』井筒俊彦


意識の深層において次々と置き換えられたり圧縮されたりする語を喚起する媒体としては、語の意味より音の類似性の方が圧倒的に優勢である。

「昔は桜の下はおそろしいところで人は避けた。満開の桜の森は風もないのにごうごうと風が吹いている。」「桜の森の満開の下」坂口安吾


「無意識のレベルでは欲動のエネルギーは、あたかも、それを安定した仕方で表装することのできるような一定の音のイメージに決してつなぎとめられることがないようにみえる。無意識においては、ひとつの音とひとつの意味との固定した<結合>というものがなく、むしろ実際には、ひとつの音から別のいくつもの音へと純粋なエネルギーの激しいすべりがあるだけである。……
これに対して、意識的に話される言葉においては、私たちはこうした一次過程[=快感原理に支配される深層意識の特性]にある種の制限があるのを認めるのである。私たちの記号は、それが表現するものに対してかなり適切なものであり、私たちの言説は相互理解の源泉である、というふうに感じられる。要するに私たちは、思考と言葉の間にはある種の<接合>がある、という印象を持っているのだ。」『ジャック・ラカン入門』A. ルメール

確かに<狂人>と芸術家(および思想家)のいずれもが、意識と身体の深層の最下部まで降りていって、意味以前の性の欲動とじかに対峙し、この身のうずきに酔いしれる。しかし後者は、たとえその行動と思想が狂気と紙一重であっても、必ずや深層から表層の制度へ立ち戻り、これをくぐりぬけて再び文化と言葉が発生する現場へと降りていき、さらにその欲動を昇華する<生の円環運動>を反復する強靱な精神力を保っている人びとなのではあるまいか。

スキゾフレニーとは決して狂気という病ではなく、ドゥルーズ=ガダリの言う「制度化された意識の既成の結びつきを破壊し、新たな<組み合わせ(アジャンスマン)>の数々を作りだす潜勢能力が生む症状」である。そこでは主体は固定したものではなく動いてあまない流れと生成のなかにあり、これはマーラーばかりでなく、ヘルダーリンやニーチェやアルトーにも共通する芸術・思想創造のモデルである。このモデルに属する人びとは、常に既成文化に対する強い絶望感をもち、異常すれすれの革新的な<物語>を生みだす。

スイスの精神医学者ビンスワンガーは、数十年にわたる臨床活動の総決算として集成した「精神分裂病」のなかで、分裂病(スキゾフレニー)は人間存在に異質な病態ではなく、人間から人間へ、現存在(ダー・ザイン)から現存在への自由な交わりを通して現れる特有な世界内のあり方であると規定している。
文化とは、そもそもがこのスキゾフレニー的動きをもつ生(レーベン)の、人間的な表現なのであって、私たちは表層意識においてこそ硬直化され画一化された生き方を強いられているけれども、その深層意識にあっては、常に流動的生成に向かって開かれた身を生きているのである。


クリマ=精神風土

「円環――美が反復を求めるとは驚くべき事だ。汲めども尽きぬ新しさ……限りある肉体の上に無限に再開される愛撫」ヴァレリー『カイエ』

ソシュールは、最初から語に先行するような<意味>などというものをはじき出してしまっていた。

「心理的に、言語なしに得られる観念とは何であろうか。そのようなものはたぶん存在しない。あるいは存在しても、無定形と呼べる形のもとでしかない。私たちはおそらく、言語の助けを借りずには二つの観念を識別する手段をもたないだろう。……次のようなものは存在しないのだ。
(a)他の諸観念に対して、あらかじめできあがっていて、まったく別物であるような観念。
(b)このような観念に対応する記号
そうではなくて、言語記号が登場する以前の思考には、何一つとして明瞭に識別されるものはない」(断章1821-1824/ソシュール)

「歩行は散文のように、常にひとつの対象を志向し、その目的は対象と合体することにある。……これに対し舞踏は[詩と同じように、その行為のなかに究極がある。舞踏はどこにもいかない。もし舞踏が何かを追求するとしたら、それはひとつの観念的対象、ひとつの快楽、ひとつの花の幻、もしくはある忘我の恍惚、生命の一極点、存在の一至高点なのである。」ヴァレリー「詩について」

「せぬ隙(ひま)はなにとて面白きぞ。……舞を舞ひ止む隙、音曲の謡ひ止む所、……此内心の感、外に匂ひて面白きなり」(世阿弥『花鏡』)

「まさに日本人は自分の身体をひとつの植物として見てきた。中核がカラダ(幹)。手足は古くエダ(枝)といった。そして顔の中にメ(芽・目)が出、ハナ(花・鼻)が咲き、ミ(実・耳)を結ぶ。……」

私たちはすでに、アドルムなどの中毒症状に苦しんで狂気に近い日々を送っていた坂口安吾が、同じ時期に書いた『火』という作品には、微塵の錯乱の陰もなかったことを知っている。安吾にとってもジューヴと同じように、<書く>ということは欲動のパトスを理性の元でロゴス化する営為であり、それはあくまでも意識的に<夢>を見ること、そして<読む>人びとをもカオス・コスモス
ノモスのあいだの絶えざる円環運動に参入させる命がけの所作であったに違いない。だからこそ、読む側も他なる受け身の観客から、……能動的創作者・演技者となるのではないか。

「読む行為は、すべてすでに書くことであり、また書くこと自体が読むことであり生きることだ」アンリ・メショニック

殻を脱がない蛇は死ぬ