市民の反抗/ソロー

人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間が住むのにふさわしい場所もまた牢獄である。

ごく少数の者たち、たとえば英雄、愛国者、殉教者、偉大な改革者、それに人間の名に値する人間などが、肉体や頭脳ばかりでなく、良心をもって国家に仕えており、だからこそ彼らの大部分は国家に抵抗せざるを得ないのだ。そこで彼らは一般に、国家からは敵として扱われる。賢者は、ただ人間として役に立つだけであり、「土塊」となって「風穴をふさぐ」ことには堪えられない。そんなお役目はせいぜいのところ、自分が死んだあとの死体にまかせておけばよいと思っている。(「ハムレット」を引用して)

「私は高貴の生まれゆえ、他人の道具にはなれないし、
他人の命令に屈服するわけにもいきません。
世界のいかなる主権国家に対しても
重宝な召使になったり、手先になったりはできないのです」ジョン王 シェイクスピア

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。 マタイ福音書




自分の暮らしている州の正体が、いままでよりもはっきりと見えてきたのだ。村で一緒に暮らしているひとたちが、よき隣人や友人として、はたしてどの程度まで信頼できるのか、ということもわかった。また、彼らの友情は単に夏の天候向きのものにすぎないことや、彼らには本気で正義を実行するつもりなどないことや、彼らが私にとってはシナ人やマレー人とおなじように偏見と迷信にこりかたまった縁の遠い人種であることや、彼らは人類のために犠牲を捧げるとしても、決して危険を冒すことはなく、財産すら危険にさらそうとしないこと、などがわかったのである。

真理のさらに純粋な源泉が存在することをまったく知らず、真理の流れをさらに上流までたどったことのない者たちは、賢明にも聖書と憲法という流れのそばにたたずみ、うやうやしく謙虚に、そこから真理の水を飲んでいる。けれども、真理が、この湖へ、あの池へと、したたるように流れ込むのを見るひとびとは、もう一度腰帯を締めなおし、その水源に向かって巡礼の旅を続けるのである。

たしかに、一クォートの血をもっていくよりも一クォートのミルクをもっていったほうが、みなさんの市場では高く売れるでしょう。しかし、英雄が血を運んでいくのはそんな市場ではありません。

「おのが身丈を越ゆるほど、背(そびら)をのばし立てぬなら、哀れなるかな、ひとの子は!」サミュエルダニエル

われわれが知識と呼んでいるものは、しばしば積極的無知のことであり、無知とは消極的知識のことである。

われわれが到達できる最高知とは、いわゆる「知識」でhなあく、「知性への共感」である。

われわれを束縛しないものこそ、能動的義務である。われわれを解放してくれるものこそ、[真の]知識である。そのほかのあらゆる義務はわれわれを疲れさせるだけであり、そのほかのあらゆる知識は技術屋の技巧にすぎない。 ヴィシュヌ聖典

知識は細部の蓄積としてではなく、天からの閃光としてわれわれのもとに届けられる。

私の見るところ、いったん小事に関心を向ける習慣が身につくと、精神は永久に汚れてしまい、その結果、われわれのあらゆる思想は小事の色に染まることになる。われわれの知性そのものが、いわばマカダム工法で舗装される――つまり、知性の基盤が粉々に砕かれ、その上を旅の車が転がってゆく――ことになるわけだ。

こうしてわれわれが、すでにみずからの神聖さを汚してしまったとすれば――汚さなかった者がいるだろうか?――それを救済する方法は、用心深く、献身的に、みずからの神聖さを取り戻し、ふたたび精神の神殿をうち建てることだろう。みずからの精神――つまりは自分自身――を扱うときには、自分が後見人となっている無邪気なあどけない子どもに接するときのようにし、その子どもの関心をどんな対象、どんな主題に向けるべきかについて、細心の注意を払わなくてはならない。

文体とはラテン語でいうstylus、つまり書くためのペンにすぎない。自己の思想をより巧みに表現することにならないとすれば、なにも文章を削ったり、磨いたり、光らせたりすることはないわけである。文体は利用するものであって、眺めるものではないからだ。

「二種類の人間を、私は尊敬している。三番目はいない。最初の人間は、土から作られた道具である肉体を使い、営々として大地を征服し、それを人間のものにする、労苦に疲れ果てた労働者である。彼の硬い手は、私にとって尊いものだ。その手は曲がり、荒れているが、そこにはこの地球の王笏ともいうべき永遠の王者の妙なる美徳が宿っている。また、すっかり日焼けして、土によごれ、粗野な知性にあふれた、そのいかつい顔も尊い。雄々しく生きる人間の顔だからである。ああ、君は粗野なればこそ――さらに言えば、われわれは君を愛するとともに哀れまねばならぬからこそ、いっそう尊く思われるのである。虐待された兄弟よ!われわれのために、君の背中はこんなにも曲がってしまった。君は貧乏籤をひいて、われわれのために徴集された兵士であり、われわれのために戦って、ひどい手傷を負ってしまったのだ。こんなふうに述べたのは、君のなかにも神が創造した形相が宿っているからであるが、その形相は表面にあらわれる運命にはなかったのだ。それは労働の厚い付着物とよごれとに覆われたままでいなくてはならなかった。また、君の肉体はその魂と同様に、自由を知ることはできなかった。だが、労苦をいとわずに働き、さらに働きつづけたまえ。ほかのだれが義務から逃れようと、君は義務を果たしているのだから。日々のパンという、まったく不可欠なもののために働いているのだから。」

「私が尊敬する――しかもさらに深く尊敬する――二番目の人間は、精神的に不可欠なもの、つまり日々のパンではなくて、生命のパンのために労苦をいとわず働いているひとである。彼もまた、内面的調和を求め、行為なり言葉なりによってそれをあきらかにしようと、高尚か低俗かにかかわりなく、あらゆる外面的な活動を通して努力することにより、みずからの義務を果たしている人間ではあるまいか?彼の外面的努力が内面的努力とひとつとなったときに、彼は最高の人間となる。そのときこそ彼を『芸術家』と呼ぶことができるのだ。彼は単に地上の職人ではなく、天上でつくられた道具を用いてわれわれのために天を征服してくれる、霊感にあふれた思想家となる。もし貧しくて卑賤なひとびとが、われわれを食べさせてくれるために働くのだとすれば、地位の高い、栄光を担うひとびとは、その返礼として、前者に光と手引きと自由と不死を与えるために働くべきではあるまいか?彼らのあいだにどれほど程度の差があろうと、私はこれら二種類の人間を尊敬する。それ以外の人間はみな籾殻や塵にすぎない。どこへなりと風の意のままに吹き飛ばされてしまうがよいのだ。」

「とはいえ、私が言葉にあらわせないほどの感動を味わうのは、この二つの尊いものがひとつに結ばれているのを見るときである。また、外面的には人間のもっとも低い欲求を満たすために骨折らなくてはならないひとが、内面的にはもっとも高い欲求を満たすためにも骨折っているのを見るときである。およそこの世界で百姓聖者――そういうひとに、いまでもどこかで出会えるとして――ほど崇高なものを私は知らない。そのような聖者は、君をナザレへと連れ戻すであろう。君は大地のごくつまらない深遠からさえも、まるで大いなる暗闇に輝く一条の光のように、まばゆい天上の光が湧きあがるのをまのあたりにするであろう。」
カーライル「衣装哲学」

ひとりの人間に対する過度の偏愛や共感が大きな危険をもあらすのではなく、結局は、だれひとり自分にふさわしい褒美を得ることができないような、多数者に対する薄っぺらな正義こそが大きな危険をもたらすのである。