創造と狂気 / フレデリック・グロ

観察のもっとも瞠目すべきものは、文士自身によってなされている。文士たちは自分の細々とした感覚までも書き込む。自分の病的性質を大事にする。それを自らの栄光とし、私たちに示す。自分の思考と感覚の表現という観点からすれば極めて才能に恵まれた彼らはその思考に相応しいやり方で自我を表明する。精神科医はそこから取り出せばいい……。それは解剖された神経症である。Voivenel

感受性の過剰さこそ病気の入り口、直接的原因である。ひとが神経衰弱に陥ったり、強迫観念に取りつかれたり、ペシミストになるのは、脳の出来とか、暗いものへと向かう精神を持つからではない。過敏だからである。ひとつひとつの感覚が苦痛となり、それを分析し、苦い味わいを持つからである。神経衰弱のすべてはこうした感じ方、分析の仕方のうちにある。『医学と現代のペシミズム』

「エミール」の著者は語の本来の意味で狂人であったことは決してない。思い込みによる恐れや疑いに苛まれているとはいえ、精神病院に蝟集する、危険な衝動の虜になった頭のおかしい被害妄想患者とは一線を画す。むしろ、感受性の強い人たちが彼の仲間である。彼らはしばしば偉大な思索家でもあり、生まれながらの痛覚過敏は人生の悲痛事に膨れ上がり、あらゆることに苦痛を覚え、暗い厭世に陥る。たしかに病理学的なものではあるが、決して狂気には至らない。

堅実さのない弱くて軽い魂と脆弱な意志しかもたない変質者は錨をどこに降ろすべきか知らない。よかれ悪しかれ思いつくまま行き当たりばったりにさまよい、抵抗することも出来ず自分自身に引きずられていく。それは一瞬の印象または衝動によって意志が敗北することである。気まぐれによって支配されること……。途方に暮れた精神、舵を失った魂は流されるままに、今は現実性を欠いた理念へと向かい、明日は泥のなかへ向かう。(ibird)

最悪なのは、彼らが「きわめて現実主義的な芸術とは一切共通点のないゴミのような詩」に悦びを見出していることである。そのうえこうした自己満足は自意識過剰の一側面でしかない(「詩人の不幸は過度の虚栄心、自分の外に何も見ようとしない意識過剰なエゴイズムの結果そのものである」)

自分以外に彼らが愛するのは猫だが、これは精神病の明確な徴候のひとつである。
「彼[=詩人]はこの自己中心的で偽善的な動物にあまたの美点を認める。病的なまでに賛美する。この猫への愛情はいささか頭のおかしい詩人たちによく見られる。」 Laurent

神経症の予備軍たちは悪しき種の思うがままの開花をゆるす見事な土壌である。...神経症や狂人になると、他の狂人の詩句を読んで、自分でも詩を作って楽しむようになる。繊細な倒錯を読め見て、自分が大衆を超越するさまを思い描く。かくして完全な病気になり、牢獄で人生を終える。

私たちのおかげで、下手な詩を唸ったり、つまらぬコラムを書いたりしていた人間が、どうにかこうにか毎朝事務所に通い始め、結婚し、子どもをもうけた。たぶん、自分の子はサラリーマンか商売人にするだろう。


狂気とは精神面の過剰活動である。...この過剰活動を弱め、凝集力を崩すことで、ひとは理性を取り戻すことができる。人間にその自己力(セルフパワー)を返すことができる。引き算で修正することが肝要であり、妄想から理性へと戻すのに足し算は必要ない。モロー・ド・トゥール


<天才とは狂人である>...私がこんなばかげたことを言ったと思われている...そんなことはない、天才はまさに天才であり、狂人はまさに狂人である。これはまるで違うことだ。私が言ったのは、天才と狂人は同じ器質的起源を持っているということなのだ。
天才と狂人はひとつの幹から出る。遺伝によって体質のうちにあったり、先天的法則によって完全に作られた「同じ器質的条件を伴っている」。それらの条件は個人のその後の展開によってさまざまに変容するが、トキに狭義の神経症、また時に知的突出を、ある者には痴愚や狂気、またある者には非凡な知的・精神的能力といったものをもたらす。そしてほんの少数の者のうちに知的ダイナミズムの最高度の表現、すなわち天才をもたらす。

狂気はあらゆるものが変貌する混沌とした時間における一個の主体の、自己と他者に対する異質性である。逆に天才は同一者の永続性となろう。私たちは天才が創り出す作品が自立、永続し、のちの成功が頑固なまでの趣味に栄冠をもらたらし、その早すぎた仕事を正当化することを知っている。




彼らの人生の始まりには全面的な不調和の刻印がされている。早熟な子どもだが、性格障害があり、才能にあふれる青年だが、神経症である。
「彼らは少年時代からその早熟さと、すべてを理解し把握する能力によって目立っている。しかし同時にその気まぐれ、頑固さ、本能的な残酷さ、激しく痙攣的な怒りの発作が目につく。思春期には頭痛やさまざまな神経症の疾患を訴えることが多い。同時に興奮や欝の一時的発作もある。さらに情念に捕らわれた心的傾向の極端なものもある(神秘主義、自慰、漠とした性的願望、旅行熱、偉業の追及など)」
大人になると精神の不安定さは増大し、魅惑的で、独特、エキセントリックで、人を惹きつけるが、危険なパーソナリティが生まれる。さらに創造的だが、欠陥がある。これらの点は以下のようにレジス教授の『精神医学要諦』に明言されている。後にアンドレ・ブルトンが丁寧に書き写すくだりである。
「大人になった彼らは、複合的で、異質の要素からなる存在、バランスを欠いた要素、正反対の美質と欠点からなる存在である。
さらにある側面では才能に恵まれているが他の側面では不十分である。知性の面では、時として極めて高い想像力、構想力、表現力を有す。つまり言葉、芸術、詩の才がある。程度の差はあれ、彼らに欠けているのは、判断力、生真面目さ、とくに持続力、論理力であり、知的な生産活動と人生の行為における一貫性である。このためその往々にしてすばらしい資質にもかかわらず、彼らは理性的な仕方では行動できず、ひとつの職業を継続的に勤めることができない。それは彼らの能力を超えているように思える。自分と家族の利害を守ることが出来ず、商売を切盛りし、子どもの教育をみることができない」

変質者は偉大な学者になりうる。優れた芸術家にも、有能な官僚にもなりうる。しかし同時に精神面での欠落や奇妙な行動を示すことになろう。その輝かしい能力を立派なことにも使うが、最低の悪癖を満足させるためにも使う。

ソクラテスは光感覚異常だった。彼は苦もなく太陽をじっと見続けることができた。恍惚、忘我状態に入りやすかった。

「イエスキリストは言った。あなたがたは私が地に平和をもたらすためにきたと思っているだろう。そうではない。私は剣を地に投じるためにきたのだ。

ユダヤ人は他の民族の四倍、ないし六倍の静止に乗車を出している ロンブローゾ

「女性の利発さはつねに何らかの器官の異常に結びついている。これらの異常のうち一番多いのはおそらく男性的顔立ちだろう」ロンブローゾ

ある曖昧さが現れ、やがて強まっていく。狂気を天才と重ねる大胆な方程式は、同時に進歩そのものの原因となる。狂気の天才の崇高な活動によって世の出来事はなりたっているというのだ。
「狂人の熱狂的で不動の確信と天才の計算尽くされた技とをひとつにするなら、いつの時代においても鈍い大衆をこの怪物によって焚きつけ、彼らを蜂起へと導くこともできよう」


神秘主義者、とりわけエゴチストと猥褻な偽レアリストは社会にとって最低の敵である。社会には彼らから身を守る最低限の権利がある。社会とは人類だけが行き、繁栄し、より高い地点へと進歩することのできる自然で有機的な形式であることに同意してくれる人々よ、文明を価値あるプラスなもの、守る価値のあるものと考える人々よ、反社会的害虫を容赦なく足で踏みつけようではないか。ニーチェのように「自由に徘徊する享楽的な肉食獣」に熱狂している人にはこう言おう。「文明の外に出て行け。私たちから離れて、さ迷えばよい。できるものなら自分で道を平らにして、小屋を建て、服を着て、自らを養えばいい。私たちの通りも家もお前のために作られたのではない。私たちの畑はお前のために耕されたのではない。私たちの仕事の一切は、互いに尊重し合い、互いに敬意を払い、相互に助け合い、全体の利益のためにエゴイズムを押さえる人たちによってなされたのである。ここには享楽的な肉食獣のための場所は一切ない。もしお前が私たちのところにもぐりこもうとするなら、棍棒で殴られて気を失うことになろう」。 Ibird, t. II, p.550-561


「ある種の精神にとっては一粒の小さな狂気のほうが、わずかな貴族の血にまさるだろう。半狂人がいなくなったあかつきには文明社会は滅びるであろう。溢れる知恵によってではなく、溢れる凡庸さによってである。これは掛け値なしに断言できる」キュレール

キュレールにとって、天才と狂気は、完成した文明と、媒介物の増殖が創り出したものである。罰を受けずにはおれないのだ。未開文明に天才はいないが、狂気もない。キュレールにとって天才と狂気は「歴史の操作手(オペレーター)」である。

フルリィ博士の考察「小説家の典型的な一日」
八時半に起床。医学的に制御されたぬるめのシャワー。九時に朝食(卵二個)。九時半から十二時半まで、執筆の仕事。昼食(白身の肉と焼いたパン)。半時間、軽い記事を読みながら、喋ることなく横になる。ズボンはウェストのゆったりしたもので、サスペンダーを使う。葉巻は三分の一本。そのあと四時まで散歩。六時まで読書。外で食事。ほどほどの娯楽鑑賞。零時に就寝。


癲癇者「ヘラクレス、アイアス、エンペドクレス、ソクラテス、カエサル、聖パウロ、ムハンマド、ルター、パラケルスス、ニュートン、シラー、ヘンデル、そしてフローベール」

『夜の一時の幻』のなかでノディエは書いている。「人々が狂人と呼ぶ不幸なものよ、はたして、この一般に欠陥とみなされているものが、いっそう強力な感受性、いっそう完全な頭脳の兆候でないとだれが言えよう。自然は、きみの能力を高揚させたあげくに、未知なるものを見抜く能力を与えてくれたのではないだろうか。」

強い知的活動を行う患者たちが、他の者異常に精神的トラブルに陥る危険があることは、疑いえない。だが私たちはこの問題をまったく別の側面から扱うつもりである。つまり芸術家がどの程度狂人になりうるかではなく、明白な狂気に芸術的表現が伴うのはどの範囲でなのかが研究課題である...病に冒された患者は、一時的とはいえ、自己を超越するが、その後、治ると再び凡庸さに落ち込む...狂気がときに創造的活動の開花を促すことは明白である。レジャ

結局のところ、狂人の悲惨な作品以上に、俊作から遠いものはない。その違いは赤子と成人の違いである。それでもやはり、狂人の落書き以上に高度に洗練されたアカデミックな絵画に最も近く、最も親しいものは存在しない。それは遠く離れた同一性、密なる距離なのである。つまり狂人の芸術は大芸術の先史なのである。

革命というものは、時間の内部にある一連の構成原理(エコノミー)――さまざまな条件、約束、必然性――に沿ってはじめて組織されるものだ。そしてそれゆえ、革命は歴史のうちに住まい、歴史のうちにみずからの床を作るものなのであり、結局そこに身を横たえるものなのだ。一方、蜂起というものは、時間を断ち切り、地面に対して、そして自らの人間性に対して、人間をまっすぐに立たせるものだ。

デジェネレ 変質者