芸術起業論 / 村上隆

日本の美術の授業は、ただ「自由に作りなさい」と教えますが、この方針にしても、欧米の現代美術の世界で勝ち抜くためには害になりかねません。自分勝手な自由からは無責任な作品しか生まれません。

欧米では芸術にいわゆる日本的な、曖昧な「色がきれい……」的な感動は求められていません。

芸術は、想像力をふくらませる商売である

価値観の違うひとにも話しかけなければ、未来は何も変わらない。こういう世界共通の当然の話が、若いアーティストの頭から抜けている。自分の狭い世界だけでものを考えて作品をつくだけではいつかつじつまが合わなくなります。

アートというのは贅沢な娯楽です。作品制作では厳しすぎるほどの眼を持つべきです。すべての細部にこだわり、真に魂の入った作品にしあげてゆくべきですが、これはマネジメントにおいても同様です。

心の状況を整備し、心の本音を探索し、心の扉を開け放つ……。そういうリスクの高い行為をしているのが芸術家です。

なぜ、芸術作品には高い値段がつくのでしょうか。なぜ、芸術家は尊敬されているのでしょうか。理由は簡単です。すばらしい芸術はジャンルを超えて思想にも革命を起こすからです。

日本では「魂の叫び」みたいなグネグネした作品をただ独りで作ることこそが芸術と思い込まれているのですけど、ほとんどの時代の芸術はそうではないのです。

日本の異端は欧米の評価を受ける。日本の本道は欧米の評価を受けない。現代に通じるこの流れを日本人は意識すべきです。



作品を意味づけるために芸術の世界でやることは、決まっています。「世界で唯一の自分を発見し、その確信を歴史と相対化させつつ、発表すること」これだけです。

芸術は「強烈な独創」が基準点で、前人未踏の新しさを世界に提案できるかどうかの勝負だから「唯一の自分」の発見は欠かせません。

芸術家がいいものを作るための近道は、偶然の幸運をいかに自分の手の中に掴むか

芸術家は自由な存在と思われがちですがそれは錯覚です。芸術家の自由はほとんど死後に限定されています。

表現の世界では、みんなが、実現不可能なことに夢をはせては挑戦を続けています。()ぎりぎりまでやらないと、ものが見えてこない世界。集中力と体力がきれたら、すぐに死ぬしかない世界。でも、この世界に入った以上、みんなが望んでいるものはその「実現不可能なもの」なのだから、なんでそこに突っ込んでいかないんだよと思うのです。


「若いこと、貧乏であること、無名であることは、創造的な仕事をする三つの条件だ、と言ったのは毛沢東です」宮崎駿

イヤなことを言われて心がズタズタに傷つくときはかならず来るんです。そこでみんなが挫折を味わう。だけどそこからもう一度戻ってこられるかどうかが勝負なんですよね。


(フランスの)日本を見る目がいまだに極度のオリエンタリズムの色眼鏡のままだった






「禅とオートバイ修理技術」ロバート・パーシグ

おそらく私たちは、本当の生活は都会のなかにあり、いま目にしているこのすべては単なる田舎の退屈な風景にすぎない、と思い込んでいたようである。おかしな話である。真理がやってきて扉を叩くと、「あっちへ行け、私は真理を求めているのだ」と人は言う。だから真理は立ち去ってしまう。不思議なことだ。

科学の神殿のなかにはたくさんの住まいがある……そしてそのなかに済む人びとも、彼らをそこへ導いてきた同期も、まことに種々雑多である。()主の御使いにの意に適った人びとは……一風変わった、人と打ち解けない、孤独な人間である。追い払われた大勢の連中に比べれば実際、残った人びとのほうがそれぞれかなり個性的である。

彼らを科学の神殿へと向かわせたものはいったい何か……それは日常生活からの逃避、痛ましいほど不完全で、絶望的なほど単調なこの生活からの逃避であったろう。そして自己のうつろいやすい欲望の足かせから解放されることであった。繊細な気質を持った人ならば、この世界の騒々しさと束縛から離れて、鉱山の静寂のなかへ逃れたいと憧れる。そこへ昇れば、眼差しはしんとして澄み渡る大気の中を字油に漂い、一見永遠にわたって築き上げられたかのように見えるもの静かな山々の輪郭を、心をこめて辿ることができるのである。

もし人間の知識のすべてが巨大なヒエラルキーを構成しているとすれば、精神の高地は、最も一般的かつ抽象的な考察において、その最上部に位置している。
しかしここに足を踏み入れる人はほとんどいない。そうしたところで何の実益もえられないからである。だがここには、この物質世界同様、それ特有の厳粛な美がある。ここを旅する人にとってその辛苦が報われるのは、この美あればこそなのだ。

完全な確信を持っていることに身を捧げる人は決していない。明日もきっと太陽が昇ると熱狂的に騒ぎ立てる人はいないはずである。……政治的あるいは宗教的心情に、そしてまたそのほかの教義や目的に熱狂的に身を捧げるのは、耐えずそれらに疑問を抱いているからなのである。

芸術と工芸とを分離するのはまったく不自然なことだ……遠い昔のことだが、回転肉焼き器の組み立て方だって、実際は彫刻の一部分だったのさ。

現代の理性は、地球が平らだと考えていた中世期の理性と大して変わりがない、と私は思っている。理性を超越してしまうと、向こうの世界、つまり狂気の世界に落ち込んでしまうと思っている。そしてだれもがそれを非常に怖れている。この狂気に対する恐怖は、かつて人びとが抱いた地球の端から落ちてしまうという恐怖に勝るとも劣らない。

目標に至る精神の軌跡を自然の山に譬えることは、ごく自然な試みかもしれない。しかしほとんどの人は、この渓谷に住んでいる人たちのように、その山を目前にしながらみずからは決して足を踏み入れようとしない。ただ、かつて底を歩いた人たちの話に満足げに耳を傾けている。彼らはこうして身にかかる苦難を避けているのだ。なかには熟達したガイドに伴われて山に入り、目的地に到達する人もいる。また何の経験もないのに闇雲に自分の道を切り開こうとする者もいる。だがこうした人のほとんどは目的地を前に挫折してしまう。しかし希には、純然たる意志と、運と、神の恩寵によってその目的を成就する者がいる。いったん頂を極めれば、そこに至る道は限りなく見えてくる。


あるクラスの授業で、学生全員に丸々一時間を費やして自分の親指の甲について書かせた。最初はどの学生も妙な顔で見ていたが、「何も書くことがない」と文句を言う者は誰一人なく、みなそれぞれにペンを走らせた。……いったん自分本来の目で者を見るこつを把握してしまえば、その表現には限りがない。

模倣は絶対悪である。


「目標を意識せずにひたすら昇っている人が、。最も高いところにいる」クロムウェル

実在論:「ある事物がなければ世界が正常に機能しないとすれば、それは確かに存在する」

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな……三位一体」モンタナ州立大学の廊下や大講堂の階段を歩きながら、ひとり静かに、声をひそめてパイドロスはこう口ずさんでいた。

芸術とは高いクオリティを求め尽くすことである。
もっと仰々しい言い方をすれば、「芸術とは、人間の創造物に顕示される神性である」とも表現できる。

事実は一般的であればあるほど、それだけいっそう貴重である。

何を書こうかと迷って立ち往生してしまうのはごく普通のことだ。一度にたくさんんおことをしようとすれば、だいたい行き詰まってしまうものだ。肝心なことは、無理に言葉を引き出そうとしないことだ。

心の落ち着きは、技術的作業にとって決して表面的なものではない。これこそが重要なのである。心の落ち着きを生みだす物は、優れた仕事であり、それを破壊する者は、悪い仕事である。()心の落ち着きこそが例の≪クオリティ≫を知覚するための前提条件だからである。()良いと思われるものを見抜いて、その理由を理解し、作業のなかでこの良さと一体になることが、内なる安らぎ、つまり心の落ち着きを培い、ついにはその良さを輝き出させるのである。

覇気というこの言葉が≪クオリティ≫に通じた人の状態を的確に表現していることである。古代ギリシャ人はこれを「エンスージアスモス」と呼んだが、それは文字通り「テオス」、つまり「神に満たされた」という意味である。()
覇気満々の人びとは、無為無策のまま、放埒をきわめたり、物事に気をもんだりはしない。自己認識という列車の前面にいて、常に軌道の先を見据えて、何がきてもそれを真っ向から受けとめる。それが覇気である。

たとえば、コンピューター回路の電圧は、「1」か「ゼロ」しか示さないと繰り返し言われてきたが、そんなバカげた話があるものか!()電源を切ったとき、電圧が「1」を示しているか、それとも「ゼロ」を示しているか、よくみてみるがいい!回路は「無」の状態にある。1でもなければ、ゼロでもない。

イギリスの哲学者ホワイトヘッド「あらゆる哲学はプラトンの脚注にすぎない」

これまこの世界に損害をもたらしてきた一台原因は古代の人びとの思想を無意識に受け入れてきたことにある、と断じた者が誰一人いなかったことである。

……この景色のすべてがこれほど愛しく思えるのに、どうして私が狂気でありえようか?……
……そんなことが信じられるものか!
神話。これこそが狂気なのだ。パイドロスはこう信じていた。神話は、この世界に形式は実在しても、≪クオリティ≫は実在しないと説く。これこそが狂気でなくて何であろうか!だからパイドロスは、アリストテレスと古代ギリシャ人達こそが極悪人だと思ったのだ。何しろこんな奇形の神話を形成しておきながら、これを――この狂気を――真の実在だと思わせようとしたのだから。

コールリッジ「人はみなプラトン主義者かアリストテレス主義者のいずれかである」


形式と型にはまった表現は、優れた人間が最も嫌い、出来の悪い人間が最も好む者である。


「書くことについて」スティーヴン・キング

ひとつここではっきりさせておこう。小説に関するかぎり、アイデアの集積所も、ストーリーの中央駅も、埋もれたベストセラーの島も存在しない。いいアイデアは、文字通りどこからともなくわいてくる。(中略)われわれがしなければならないのは、そういったものを見つけ出すことではない。そういったものがふと目の前に現れたときに、それに気づくことである。

小説家でも詩人でも、作品が世に出れば、いつもかならず才能の浪費だと批判されるものだ

いい文章というのは、ひとを酔わせると同時に思案にふけらせる

死を書く行為は、神話的な啓示の瞬間と同様、床掃除とも多くの共通点を持っている

ヘミングウェイやフィッツジェラルドが酒を飲んだのは、想像力に富んでいたからでもなければ、阻害されていたからでも、精神的に弱かったからでもない。アル中というのは、飲むようにできているのである。

ものを書くときの動機は人さまざまで、それは焦燥でも良いし、興奮でも希望でもいい。あるいは、心のうちにあるもののすべてを表白することはできないという絶望的な思いであってもいい(中略)動機は問わない。だが、いい加減な気持ちで書くことだけは許されない。繰り返す。いい加減な気持ちで原稿用紙に向かってはならない。

”ウィリアム・ストランクの見るところ、たいていの場合、読者はトラブルに見舞われている。なかには、沼でもがいている者もいる。書き手の務めは、早く泥の水を抜いて、彼を助け出すことである。それが無理なら、せめてロープを投げるくらいのことはしなければならない。”『英語文章ルールブック』

副詞は臆病な作家が好んで使う。
地獄への道は副詞で舗装されていると、私はビルの屋上から叫びたい。

作家になりたいのなら、絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み、たくさん書くことだ。私の知る限り、そのかわりになるものはないし、近道もない。

読書は作家の創作活動の中心にある。

仕事場に入るときは、その日の目標を決めておいた方がいい。

創作活動はウイジャ・ボードの占いでもないし、霊媒の口寄せでもない。配管工事や長距離トラックの運転と同じ肉体労働だ。

なんらかの問題意識やテーマにもとづいて書くというのは、駄作のレシピである。

最愛のものを殺せ。たとえ物書きとしての自尊心が傷ついたとしても、駄目なものは駄目なのだ。

公式――二次稿=一次稿マイナス10%

私が書くのは悦びのためだ。純粋に楽しいからだ。楽しみですることは、永遠に続けることができる。
私にとって、書くという行為はときに信仰であり、絶望に対する抵抗である。

このブログについて

Evernoteに書いた読書メモをコピペするだけのページ。読書記録、書き抜き帳。何かの役に立てば。