ニーチェ/ジル・ドゥルーズ

――「どうしてこんな狂おしいことが可能であったのか。どうしてそんなことがわれわれほどの頭のなかに生じてしまったのか。われわれ高貴な血筋の人間、幸福な人間、健康な肉体を持ち、高い水準に位置する、有徳な人間の頭のなかに」――数世紀にもわたってあの高貴なギリシア人は、自分たちの仲間の一人が犯してしまった悪行、どうしても合点の行かぬ悪行に直面するたびにこう自問したのであった。そして最後には、頭を振りつつ次のように答えたのである――「きっとある一柱の神が、あの男の気をふれさせたに違いない」……。こういう遁辞は、ギリシア人のあいだでは典型的なものである……。以上のような次第で、当時の神々は人間を正当化するために、つまりたとえ凶事においてさえもある程度まで人間を正当化するために役立ったのだ。神々は、悪の原因に解釈を与えるために役立ったのである。――すなわち当時の神々は罰を下すという任務を引き受けるのではなく、むしろより高貴なものを、つまり過ちを自分の身に引き受けたのである。

ニーチェの用語である<力への意志>とは、極端に言えば<力(マハト)>への「力の、力との関係」と考えることができる。力の、知からとの関係は根本的に言って、<力>を現出させようと欲している。<力>とはおそらくニーチェの理解では、力強さあるいは強さということである。強さといっても、ある一つの主体が権力を持っているという意味ではない。既成の諸価値(高い/低い、上/下、支配的/隷従的、等々)にそのまま応じて<強い>こと、<命じる>こと、<支配している>ことではない(強さがそう理解されてきたのは、怨恨や疚しい心の視覚から見られているからである)。強さとは強烈さ、激しいということ、激しさの度合いが高いということである。だから<強い>ということは、なにかを欲しがったり、手に入れようとすることではなく、むしろ作り出そう、自らの持っているエネルギーを贈与しようとすることである。



強さを現出させようと欲する「力の、力との関係」から、互いに関わり合っている諸力の<量>の差異が派生し、かつまたこの関係において各々の力に帰す<質>も生みだされる。諸々の力たちの関係のなかで、ある力は、もし力の本質に忠実に強さを現出させよう、より激しくなろうとするならば、自らの(内に含まれた)差異化の動きを肯定する方向へ動く。言い換えれば、複数化、多様化を肯定しようとする。それが能動性であり、力が能動的なものへと生成することである。こうして<力>への力と力との関係の一つの質として、すなわち<力への意志>の一つの質として、肯定することが優位に立つ。

しかしそうではなく、もし力の本質を誤認し、能動的に推されたことに対抗して制御することで自己を守るのだ、本来の自己同一性を保つのだと信じるならば、自己がそうでないものに対立し、敵対して、そうした他なるものを否定する方向へ動く。なぜならそうすることで、<自己が強くなる>と錯覚するからである。それが反動性であり、力が反動的なものへと生成することである。こういう方向も<力への意志>の一つの面、一つの質であり、この場合は否定することが優位に立つ。

ニーチェが〈ニヒリズム〉と呼んでいるのは、反動的なものへと生成する諸力が優勢を占め、〈力への意志〉の質として否定することが肯定を圧倒し、能動的、活動的と錯覚された反動性があらゆる能動性を縮減して虚無への意志をなすことである。

ニーチェの考えでは、哲学の歴史はプラトン主義以来、長い服従の歴史であり、その服従を正当化し、理論化するために人間が自らに与える数々の理由の歴史である。
多数化はもう一なるもの=一者性に委ねられたり、その管轄に服したりしない。また生成することは存在に委ねられず、その管轄下に属すことはない。すると存在や一者性(統一性)は意味を失うのだろうか。そうではなく、ある新しい意味を持つ。一者性は多数化としての多数化(すなわちつねに全体性を欠く断片、片割れ)についてのみそう言われるのである。存在は生成としての生成についてのみ、そう言われる。多数化を超えてその彼方にある一なるもの(本来的な同一性、全体性)はありえない(信仰としてならば、ありうるだろうが)。ただ多数化することの一者性がありうるのみである。純粋に生成することを超えてその彼方にある真なる存在はありえない。ただ生成することの存在がありうるのみである。では生成することが存在するとは、どんな存在なのか。多数化することの一者性とは、どういう一者性なのか。それは〈再び来る〉ということである。回帰する、再来するということが、すなわちつねに事後性として生きること、遅れとともに生きるということが、生成することの存在である。〈反復する〉ことがまさに多数化することの一者性である。

その人間的な本質において、人間とはひとつの反動的な存在である。

司祭とは、怨恨の方向を転換する人間のことである。実際、苦悩する者はだれでも、その苦しみの原因を本能的に探し求める。さらに詳しく言えば、なにか生身を持って活動しているような原因を本能的に探し求めるのであり、いっそう正確を期して付け加えると、ある一人の責任者を、つまり彼もまた苦悩することがありうるような悪い人間を求めるのである。要するに苦しむ者は、どんな口実でもよいからとにかく自分の激情を、実際にそのひとに向かって、あるいはその「人形(ひとがた)」に向かって吐き出すことができるような生きた存在を探し求める。なぜならば、激情を吐き出してしまうということは、苦しんでいる者にもっとも効果的な鎮痛の試み、痛みを麻痺させる試みであり、あらゆる種類の苦悩に対してほとんど無意識的に熱望される麻酔剤であるからだ。私の考えでは、怨恨とか復讐とか、それに類するものなどの唯一の、真なる生理学的な要因は、このような点にのみ、つまり激情=情念という手段を通じて、苦痛を麻痺させようという願望にのみ見出されるのである。(略)苦しんでいる者はいずれも皆、恐るべき素早さで、また驚くほど独創的なやり方で、自分の苦痛の感情にきっかけを与えた原因を見つけ出す。彼らは、自分こそ誰か悪い人間の悪意や卑劣さの犠牲になっているのだと思い込み、そういう疑惑をあれこれこねまわしたり、穿鑿することでさえも、一種の享受の対象にする。彼らは自分の過去、および現在を、その臓腑の底の底まで掘り返して、なにやら暗黒のストーリー、秘密めいた物語を見つけ出し、そこで勝手に苦しい猜疑に耽る、という具合に自分自身の悪意の毒に酔ってしまうのである。――彼らはいちばん古い傷口も、荒々しく開き、もうとっくに癒えている傷痕からまで血を流させる。彼らは自分の友人や、妻子や、その他最も近しいひとびとを、悪者に仕立て上げる。「私は苦しんでいる。それは誰かのせいに違いない」――すべての病める羊は、こう考えるのだ。だが、そのとき彼らの牧人、禁欲主義的な司祭は、彼らに向かって言う、「私の羊よ、まったくその通りだ。それは誰かのせいに違いない。だが、その誰かとは、おまえ自身だ。おまえこそその苦しみすべての原因なのだ、――おまえ自身が、お前自身の苦しみのただ一人の責任者なのだ!」と……。この言い方は、ずいぶん大胆であり、ずいぶん間違っている。しかし、これによって少なくとも一つのことが達せられているのである。すなわち既に指摘しておいたように、怨恨の方向が――転換されているのである。