善の研究/西田幾多郎

しかし我々は決して単に決意または解決という如き内面的統一の状態にのみ止まるのではない、決意はこれに実行の伴うは言をまたず、思想でも必ず何らかの実践的意味をもっている、思想は必ず実行に現われねばならぬ、即ち純粋経験の統一に達せねばならぬ。されば純粋経験の事実は我々の思想のアルファでありまたオメガである。要するに思惟は大なる意識体系の発展実現する過程にすぎない、若し大なる意識統一に住してこれを見れば、思惟というのも大なる一直覚の上における波瀾にすぎぬのである。



真の個体とはその内容において個体的でなければならぬ、即ち唯一の特色を具えた者でなければならぬ、一般的なる者が発展の極処に到った処が個体である。この意味より見れば、普通に感覚或は知覚といっているような者は極めて内容に乏しき一般的なるもので、深き意味に充ちたる画家の直覚の如き者がかえって真に個体的といいうるであろう。

我々の有機体は元来生命保存のために種々の運動をなすように作られている、意識はかくの如き本能的動作に副うて発生するので、知覚的なるよりもむしろ衝動的なるのがその原始的状態である。然るに経験の積むに従い種々の聯想ができるので、遂に知覚中枢を本とするのと運動中枢を本とするのと両種の体系ができるようになる。しかしいかに両体系が分化したといっても、全然別種の者となるのではない、純知識であっても何処かに実践的意味を有っており、純意志であっても何らかの知識に基づいている。

知識的作用においては、我々は予め一の仮定を抱きこれを事実に照らして見るのである、いかに経験的研究であっても必ず先ず仮定を有っていなければならぬ、而してこの仮定がいわゆる客観と一致する時、これを真理と信ずるのである、即ち真理を知り得たのである。

知識の深遠となるに従い自己の活動が大きくなる、これまで非自己であった者も自己の体系の中に入ってくるようになる。

一方より見れば種々なる体系の衝突の為、一方より見れば更に大なる統一に進む為、理想と事実との区別ができ、主観界と客観界とが分れてくる、そこで主より客に行くのが意で、客より主に来るのが知であるというような考も出てくる。知と意との区別は主観と客観とが離れ、純粋経験の統一せる状態を失った場合に生ずるのである。

真理は統一にあるというが、その統一とは抽象概念の統一をいうのではない、真の統一はこの直接の事実にあるのである。完全なる真理は個人的であり、現実的である。それ故に完全なる真理は言語にいい現わすべき者ではない、いわゆる科学的真理の如きは完全なる真理とはいえないのである。

「かくなければならぬ」という理性の法則と、単に「余はかく欲する」という意志の傾向とは全く相異なって見えるが、深く考えて見るとその根柢を同じうする者であると思う。凡て理性とか法則とかいっている者の根本には意志の統一作用が働いている、シラーなどが論じているように、公理 axiom というような者でも元来実用上より発達した者であって、その発生の方法においては単なる我々の希望と異なっておらぬ

ショーペンハウエルの意志なき純粋直覚というものも天才の特殊なる能力ではない、かえって我々の最も自然にして統一せる意識状態である、天真爛漫なる嬰児の直覚は凡てこの種に属するのである。

我々の感覚的知識を以て凡て誤となし、ただ思惟を以てのみ物の真相を知りうるとなすのはエレヤ学派に始まり、プラトーに至ってその頂点に達した。近世哲学にてはデカート学派の人は皆明確なる思惟に由りて実在の真相を知り得るものと信じた。

意識が身体の中にあるのではなく、身体はかえって自己の意識の中にあるのである。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有する者を抽象したのにすぎない。

余がここに意識現象というのは或は誤解を生ずる恐がある。意識現象といえば、物体と分れて精神のみ存するということに考えられるかも知れない。余の真意では真実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられない者である。またバークレーの有即知というも余の真意に適しない。直接の実在は受動的の者でない、独立自全の活動である。有即活動とでもいった方がよい。

普通には主観客観を別々に独立しうる実在であるかのように思い、この二者の作用に由りて意識現象を生ずるように考えている。従って精神と物体との両実在があると考えているが、これは凡て誤である。主観客観とは一の事実を考察する見方の相違である、精神物体の区別もこの見方より生ずるのであって、事実其者の区別でない。事実上の花は決して理学者のいうような純物体的の花ではない、色や形や香をそなえた美にして愛すべき花である。

希臘人民には自然は皆生きた自然であった。雷電はオリムプス山上におけるツォイス神の怒であり、杜鵑の声はフィロメーレが千古の怨恨であった(Schiller, Die Gotter Griechenlands[#「Gotter」の「o」はウムラウト(¨)付き]を看よ)。自然なる希臘人の眼には現在の真意がその儘に現じたのである。今日の美術、宗教、哲学、みなこの真意を現わさんと努めているのである。

実在は自分にて一の体系をなした者である。我々をして確実なる実在と信ぜしむる者はこの性質に由るのである。これに反し体系を成さぬ事柄はたとえば夢の如くこれを実在とは信ぜぬのである。

理は何人が考えても同一であるように、我々の意識の根柢には普遍的なる者がある。我々はこれに由りて互に相理会し相交通することができる。啻にいわゆる普遍的理性が一般人心の根柢に通ずるばかりでなく、或一社会に生れたる人はいかに独創に富むにせよ、皆その特殊なる社会精神の支配を受けざる者はない、各個人の精神は皆この社会精神の一細胞にすぎないのである。

我々が或一芸に熟した時、即ち実在の統一を得た時はかえって無意識である、即ちこの自家の統一を知らない。しかし更に深く進まんとする時、已に得た所の者と衝突を起し、ここにまた意識的となる、意識はいつも此の如き衝突より生ずるのである。また精神のある処には必ず衝突のあることは、精神には理想を伴うことを考えてみるがよい。理想は現実との矛盾衝突を意味している(かく我々の精神は衝突によりて現ずるが故に、精神には必ず苦悶がある、厭世論者が世界は苦の世界であるというのは一面の真理をふくんでいる)。

水を動かすのは水の性に従うのである、人を支配するのは人の性に従うのである、自分を支配するのは自分の性に従うのである

上古における印度の宗教および欧州の十五、六世紀の時代に盛であった神秘学派は神を内心における直覚に求めている、これが最も深き神の知識であると考える。

数理を解し得ざる者には、いかに深遠なる数理も何らの知識を与えず、美を解せざる者には、いかに巧妙なる名画も何らの感動を与えぬように、平凡にして浅薄なる人間には神の存在は空想の如くに思われ、何らの意味もないように感ぜられる、従って宗教などを無用視している。真正の神を知らんと欲する者は是非自己をそれだけに修錬して、これを知り得るの眼を具えねばならぬ。かくの如き人には宇宙全体の上に神の力なる者が、名画の中における画家の精神の如くに活躍し、直接経験の事実として感ぜられるのである。これを見神の事実というのである。

王陽明が知行同一を主張したように真実の知識は必ず意志の実行を伴わなければならぬ。自分はかく思惟するが、かくは欲せぬというのは未だ真に知らないのである。

真実にいえば、意識は決して他より支配される者ではない、常に他を支配しているのである。故に我々の行為は必然の法則に由りて生じたるにせよ、我々はこれを知るが故にこの行為の中に窘束せられておらぬ。意識の根柢たる理想の方より見れば、この現実は理想の特殊なる一例にすぎない。即ち理想が己自身を実現する一過程にすぎない。

孔子「疎食を飯ひ、水を飲み、肱を曲げて之を枕とす、楽も亦其の中に在り」

人格は単に理性にあらず欲望にあらず況んや無意識衝動にあらず、恰も天才の神来の如く各人の内より直接に自発的に活動する無限の統一力である(古人も道は知、不知に属せずといった)。

自己の真摯なる内面的要求に従うということ、即ち自己の真人格を実現するということは、客観に対して主観を立し、外物を自己に従えるという意味ではない。自己の主観的空想を消磨し尽して全然物と一致したる処に、かえって自己の真要求を満足し真の自己を見る事ができるのである。

我々が実在を知るというのは、自己の外の物を知るのではない、自己自身を知るのである。

善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きて居る。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きて居る。而して真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽して一たびこの世の欲より死して後蘇るのである(マホメットがいったように天国は剣の影にある)。此の如くにして始めて真に主客合一の境に到ることができる。これが宗教道徳美術の極意である。基督教ではこれを再生といい仏教ではこれを見性という。昔ローマ法皇ベネディクト十一世がジョットーに画家として腕を示すべき作を見せよといってやったら、ジョットーはただ一円形を描いて与えたという話がある。我々は道徳上においてこのジョットーの一円形を得ねばならぬ。

知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。然らば如何なる精神作用であるか、一言にていえば主客合一の作用である。

愛は知の結果、知は愛の結果というように、この両作用を分けて考えては未だ愛と知の真相を得た者ではない。知は愛、愛は知である。たとえば我々が自己の好む所に熱中する時は殆ど無意識である。自己を忘れ、ただ自己以上の不可思議力が独り堂々として働いている。この時が主もなく客もなく、真の主客合一である。この時が知即愛、愛即知である。