夢分析の臨床使用の可能性
夢とは抑圧された願望充足に過ぎないとする見方は、とうの昔に時代遅れとなった観点です。……夢は、容赦のない真実や、哲学的な箴言、幻想、奔放なファンタジー、記憶、計画、予期、さらにはテレパシー的なヴィジョンや非合理的な経験、あるいはその他の神のみぞ知るというようなものでさえあります。私たちの生のおおよそ半分は程度の差こそあれ無意識的な状態で過ぎていくということを、忘れてはなりません。夢とは、無意識の特殊な現れなのです。こころには日中の側面、すなわち意識があるのと同じように、夜の側面があります。
無意識とは悪魔のような怪物ではなく、モラル的にも、美的にも、知的にも中立的な自然の性質です。それが本当に危険なものになるのは、無意識に対する私たちの意識的態度がどうしようもないくらい間違っている時だけです。私たちが抑圧しようとすればするほど、無意識の危険性は増していきます。しかし、患者がそれまで無意識であった内容を同化することを始めたその瞬間に、無意識の危険性も減っていくのです。
ご存知の通り、人はよく自分自身の死に関する夢を見ますが、それはたいして問題のあることではありません。死が本当に問題であるならば、夢は別の言語で語ります。
夢心理学概論
カント:理解するということは私たちの意図に対して十分な量を認識するということにほかならない。
(狭い意味でのフロイト学派は)極端な例を挙げれば夢の中の縦長のものはほとんどすべてファルスの象徴であり、丸いものや穴の開いたものはすべて女性器の象徴だと説明するに至ってしまっている。
分別を見失ってしまうほど何かに怒りを感じている時、私たちは自分の怒りの原因が何もかも外側に、すなわち怒りの相手となる物事や誰かの中にあると見なさずにはいられなくなってしまう。つまり私たちは、自分を怒りの状態に、あるいは時と場合によっては睡眠障害や消化不良にも陥らせることのできる力がそうした物事にはある、と信じ込んでしまうのだ。だからこそ恥知らずにも平気な顔をして衝突相手のことを非難するのだが、そうすることで私たちは怒りの対象の中に投影された自分自身の無意識の部分に対して罵詈雑言を浴びせてしまっているのである。
このような投影は無数に存在するが、その一部は好都合なものだ。すなわちリビドーの架け橋として軽減させる作用を持つ。投影の一部は不都合なものだが、実際にはそれが障害として問題となることはない。たいていの場合、不都合な投影は親しい人間関係の輪の外側に住みついているからだ。ただし、神経症患者は例外である。神経症患者は意識的にせよ無意識的にせよ一番身近な環境と強力な関係を持つので、不都合な投影が一番身近な対象に流れ込んでしまうことも、そしてそれによって葛藤を生じさせてしまうことも阻止できないのだ。したがって神経症患者は――治療を臨むのであれば――正常な人がそうするのよりもはるかに高い水準で、自身のプリミティヴな投影を見抜いていかなければならないのである。もちろん、正常な人も同じように投影を行うが、それをよりよく分割している。好都合な投影にとって対象は近くに、不都合な投影にとって対象はずっと遠くにある。
たとえば自分の子どもたちやその他の「魂ある」対象のことを、自分自身の心を扱うのと同じようにして扱うプリミティヴな人々だ。彼らは子どもたちや対象のこころを害するようなことをしてしまうのではないかという不安が原因で、あえて何もしないのである。そのため、子どもたちは思春期に到るまで可能な限り教育されないままでおかれる。そして思春期になると突然、あとになってからの教育が始まるのだ(イニシエーション)。それが残酷なものであることも多い。(後述:イニシエーションの際、若者たちは神、神々、あるいは「始祖」の動物が何を為したのか、世界や人はどのようにして創られたのか、世界の終末はどのようになるのか、市の意味とは何か、などといったことを学んでいく)
モラルという決まり事も、神という概念も、いずれの宗教も、外側から、いわば天から人間のもとに舞い降りてきたものではない。人間はみな自らの核心の部分にそれを持っており、それゆえ自分自身の側からもそれを創造していくのだ。
「精神疾患とは脳の疾患である」というドグマは、1870年代の唯物論の遺物だ。このドグマはどこからも正当な根拠を与えられることのない偏見となり、この偏見こそがあらゆる進歩を妨げているのである。
夢の本質について
無意識は夢だけでなく、心因性症状のマトリクスでもある。……無意識は、私や他の誰かが私の意識的態度を正しいものと感じているかどうかなどということにはまったく気を払うことがないので、無意識がいわば「違う意見を持っている」ということもありうる。無意識がしばしば重大な失錯行為を通じて多種多様の厄介な障害の原因となったり、神経症症状を生み出したりする力を持つものである以上、このことは――特に神経症の事例において――些細な問題ではない。このような障害は「意識的」と「無意識的」の不一致に起因するものなのだ。「正常な状態ならば」この一致が存在していなければならないはずだ。しかし実際にはこの一致は存在しないことの方が非常に多く、これこそが深刻な自己や病気から害のない言い間違いにまで及ぶ心因性の不調が予想以上に多いことの理由なのである。こうした関係について注意が促されるようになったことは、フロイトの功績である。……神経症の治療には「意識的」と「無意識的」との間の調和を再確立に近づけるという課題が存在する。周知の通り、このことは「自然な生き方」に始まり、理性のすすめ、意志の強化、そして「無意識の分析」にまで及ぶ、さまざまな方法でなされうる。
象徴と夢解釈
ブロイアーとフロイトは神経症症状には意味があり、特定の考えを表現するという点では理にかなっている、と見抜いた。別の言葉で言うと、神経症症状は夢と同じ方法で機能するもの、すなわち象徴化するものなのである。たとえばこういったことだ。耐え難い状況に直面している患者が、何かを飲み込もうとするときに必ず痙攣を起こす。「彼はそれを飲み込むことができないのだ」。同じような状況のもとにある別の患者は喘息の発作を起こす。「彼は息苦しい思いをしているのだ」。またある人は両足の奇妙な麻痺に悩まされている。「彼はもうこれ以上勧めないのだ」。さらにまた別の患者は食べたものをすべて吐き出してしまう。「彼はそれを消化できないのだ」。彼らはみなそれと同じような夢を見るかもしれない。
私が東アフリカにおいてプリミティヴな部族のもとでフィールドワークを行っていたとき、驚きをもって発見したのは、彼らが「夢をみることはない」と言うことだった。しかし、辛抱強く遠回しな会話をすることによって、すぐに次のことに気がついた。彼らは他の人々と同じようにちゃんと夢を観ているが、自分の夢には何の意味もないと考えているのである。彼らは言う。「普通の人の夢は何の意味も持たない」。重要な夢は首長や呪術医が見た部族の繁栄に関わる夢だけだった。このような夢はとても大切に扱われる。唯一の問題は、首長も呪術医も「イギリス人たちがこの国にやってきてからは」もう夢を見ていないということだった。地方行政官が「大きな夢」の機能を奪い去ってしまったのである。
無意識的な心が存在するということでさえ、非常に多くの科学者や哲学者によって否定されている。彼らがよく用いるのは、無意識的な心などというものが存在するとすれば、個人の中に一つではなく二つの主体があるということになってしまう、というナイーヴな議論だ。しかし、まさにその通りなのである。パーソナリティは一つのまとまりだと考えられているが、そうではないのだ。……苦境の只中にいるのは、けっして神経症患者だけではないのだ。このことは最近になって発展してきたことでもなければ、キリスト教的なモラルのせいにしてよいものでもない。それは反対に、全人類の遺産である全般的な無意識の兆候なのである。
神経症患者の行動をよく見てみれば、患者が一見したところでは意識的で目的があるかのように見える行為をしていることに気付かされるだろう。しかしそれについて尋ねてみると、驚いたことに患者はその行為についてまったく無意識であるか、あるいはまったく別の捉え方をしているのである。彼は聞いているが、それと同時に聞こえていないのだ。彼は見ているが、それと同時に見えていないのだ。彼は知っているが、それと同時に知らないのだ。こうした多くの観察から専門家たちが確信したのは、無意識的内容とはまるでそれらが意識的内容であるかのように振る舞うものだということ、そしてある思考が、発言が、行為が、意識的なものなのか、それともそうではないのかは、はっきりとはわからない、ということだった。
神経症的な現象とは病理的に誇張された正常な出来事であり、それゆえにそれに相当する正常な出来事以上に明白なものなのである。
たいていの人が考える以上に、無意識のメッセージは重要である。意識はありとあらゆる外的な誘惑や妨害に曝されており、それゆえ簡単に道を逸らされ、その人の個性に見合わないような道を辿るよう唆されてしまう。夢の全般的機能とは、補充的もしくは補償的な内容を産みだすことによって、精神的平衡におけるこうした問題のバランスをとる、ということなのだ。
いみじくもファウストはこう述べている。「はじめに行為ありき」。行為とはけっして発明されたものではなく、なされたものなのだ。一方、思考の方は比較的遅い発見である。思考は発見されたもの、つまり追い求められて発見されたものである。しかし、内省を持たない生は人間よりもはるか以前から存在していた。それは発明されたものではなく、人間が後になってその中で自らを見出したのである。人間はまず無意識的要因によって行為へと駆り立てられ、そしてそれから長い時間が立ってからようやく自らを駆り立ててきた原因について内省をし始めたのだ。自分を駆り立ててきたのは自分自身に違いないなどという奇妙な観念に人間が達するまでには、それから非常に長い年月が必要だった――人間の精神は自分自身以外の動機づけの力を見て取ることができなくなってしまっているのである。植物や動物が自らを発明するなどという考えのことを、私たちは笑い飛ばすはずだ。ところが心や精神がそれ自体を発明し、それ自体に存在を与えたなどと考える人は数多く存在する。実際には、どんぐりがオークの木に育つように、あるいは爬虫類が哺乳類へと進化したのと同じように、精神とは現在のような意識の状態へと成長してきたものなのである。精神とはこれまでそのような存在だったのであり、そして現在でもそれは変わらない。つまり私たちは外側からの力と同じくらい、内側からの力によって駆り立てられているのである。
「意志あるところに道は開ける」というモットーはゲルマン的な偏見であるだけではなく、現代人一般が持つ迷信なのだ。自らの信条を保つために、現代人は際立った内省の欠如を育んでいる。あらゆる合理性と効率性をもってしても、自分のコントロールを超えた力に自らが支配されているという事実に、現代人はまったく気がついていない。神々や悪魔たちはけっして消え去ったわけではなく、新たな名を得ただけなのだ。それは落ち着きの無さ、索漠とした心配、心理的な困惑、薬物、煙草、健康食やその他の健康法への克服しがたい欲求――そしてとりわけ印象的なまでにずらりと並んだ神経症――をもって、現代人を走らせ続けているのである。
マクベス「人生はただ、うろつき回る影法師、あわれな役者。出番のあいだは舞台の上で大見得を切り、がなり立てても、芝居が終わればもう何の音も聞こえぬ。能無しの語る物語。響きと怒りばかりはすさまじいが、意味するところは無だ」
明らかに人間には、自分の生に意味を与え、世界の中に居場所を見出すことを可能にしてくれる、一般的な観念や確信が必要なのである。意味があると確信しているときであれば、途方も無いほどの困難にも耐えられる。しかし、あらゆる不幸に加えて、自分が「能無しの語る物語」の一役を担っていると認めざるをえないとき、人は押しつぶされてしまうものなのだ。
私たちは自然を支配しているなどと自惚れているが、本当は今も変わらず自然の犠牲者なのである。そして私たちは、少しずつ、ただし避けようもない形で破滅を招いている、自分自身の本質natureをコントロールすることさえ学んでいないのだ。
「神はかつての時代には人々の前によくその姿を見せていたのに、なぜ今日では神を見た人がもはやいないのか」ラビいわく、「それほど低く身を屈めて歩む人は、今日では存在しない」
はじめて出会ったユングに対してフロイトは「転移とは何か」と尋ねる。「それは心理療法のアルファでありオメガである」と答えるユングに、フロイトは「あなたは心理療法のことをよくわかっている」と応じた。二人はその後十時間も話し続けたという。
意識の中心である自我(Ich)に対して、それよりもっとはるかに大きい無意識の中心のことを、ユングは自己(Selbst)と呼ぶ
「変容の象徴」を著した時、フロイトはユングに「頼むから神秘主義にだけは行かないでくれ」と訴えている。