われわれの遠い母親たちがこのような制禁に耳を傾けたのも、ただ女は罪障深く、穢れたもの、救われがたいものという教説の力であったとはいえないだろう。ことは土間での別火とおなじであり、月のもののたびに、お産のたびに、神をまのあたりに見なければならなかった心の重荷が、これらの教説や禁制を首肯させ、習俗として固定させたのではなかろうか。
貴族・武家をはじめとする上層支配者階級は別として、庶民の家で男子専制が確立したのはそれほど古いことではなかった。家長と主婦とがひとしく家の神祭を主宰する形は近い時代まで存続していた。
みずからの穢れ(俗)を去って浄(聖)に近づこうとすることと、穢れを避けてみずからの聖性を維持しようとすることと。古代の民間信仰ではこの両面が表裏一体の即自的な統一をもっていたが、また政治的にはこの両面はそれぞれ庶民と貴族と、被支配者と支配者とにおける忌みの考えかたの違いを示すものであった。忌みの思想の歴史は、古代から中世、近世へと、前者の考えかたによる忌みが後者の考えかたによる忌みによって歪曲され隠蔽されてくる過程であることが注意された。したがってそれは、いわば宗教が政治によってねじ曲げられてくる歴史であったともいえよう。
神道には、世界そして人間の心身は本来明るい光の中にあるという存在清浄観があり、人間の罪は穢れにほかならず、穢れは心身の表層につみかさなっただけのもの、物を洗いそそぐ性能ある水によって消除できるものとされ、心身相関の前提の上で身を洗えば心も洗われるとされる。
古代専制政治の体制は必然的に血なまぐさい政争をはてしなくひき起こし、そのなかで破滅するものがただちに人間の生死の問題に直面したのは当然として、その争いはおなじ貴族同士のものであったから、敗者の姿はつねに勝者の分身であり、あらゆる術策によって勝利したものも、勝利のゆえにその重圧を自らの負い目としなければならなかった。こうした事態に対して伝来の神はあまりに貧弱であったから、仏のもつ救済の論理こそが貴族の精神の飢渇をいやすものとして迎えられたのではないだろうか。 こうしてみると、仏教は当初から律令国家を護持するための呪術であるだけでなく、律令国家を完成し、維持しなければならなかった貴族たちに対する救いの呪術であり、宗教であったことになる。
神の世界は偶像も必要でないほど人の世に密着して存在し、仏はその上にあってすべてを照覧するという感覚は、意識するとしないとにかかわらず人びとの心のなかに潜在し、いわゆる本地垂迹の説も、もともとこうした宗教的心情を踏まえて成立し、承認されてきた教説の一つとみることができる。
さらに、重大な問題は明治以来の国家神道である。そしてそれは、今日もなお消滅させえたとはいえず、むしろ強力に復活がはかられつつあるとすらいえる。近代社会は理念的には国家と市民社会とのけじめを立てるものではあるが、日本の近代社会はその両者を未分化のまま融合させてきたといえる。明治以後も一般の人民(ないし市民)は、天皇を現人神と説かれると、昔の共同体の神と同じ意識で、スムーズにそれを受け入れてしまったということがある。国家の命令は神の託宣と同じで、運命的に受容せねばならぬ。これは、日本の宗教一般における「受動性」の、決定的にネガティブな評価をすべき帰結である。何にたいしての「受動性」であるかが自覚的なものにならないのである。そして国家が神のかわりとなれば、当然、国境を越えた普遍的な宗教意識は育たない。ここにも「国家と宗教」の問題の検討が要求されている。
鹿児島県の霧島山西南麓の村々には、外部からカヤカベ(萱壁)教とよばれる隠し念仏の一派が伝えられている。
しかしキリスト教はまた、その真理性の貫徹のために、多神教徒を都会から村(パゴス)に追いやって異教徒(パガニ)として排撃し、また宗教裁判を設けて異端を弾圧せねばならなかった。たとえば、一四〇〇年から一五〇四年までに三万人の「妖術者」が焚殺され、一五七五年から一七〇〇年までに一〇〇万人が罪せられたという(ロニー『呪術』)。
宗教はもともと、機能社会学的にいえば、人間存在の根本的な不条理を特徴づける、さまざまな形での「偶然性」や「無力さ」や「欠乏」に対応してゆくための基本的なメカニズムと考えられる。
日本は島国であるとともに山国であり、内陸部で急に高い山地になっているため河川の流れは速い。それにアジア季節風帯に属して雨が多いため、河川はつねに大量の土砂を流しだしてきた。このことを逆にみれば、時代を遡るほど河川の沖積作用による平野の造成度がいちじるしく低いことになり、現在では国土の二四パーセントが平野といわれるが、その比率は以前ははるかに少なかった。
大和盆地のようにとくに早く開けたところは別として、ひろびろと開けた耕地のなかに集落が点在するという開放的な田園風景は、一般には近世以後に姿を現わした。
村と村が耕地でつづき、そのあいだを一本の畷道が走るという光景は、一般には近世以後のものである。
民族社会が真に求心的性格をもつようになったのは、都市の工業を中心とする近代になってからである。まして社会が点と線で構成されていた時代には、個々の点はそれぞれ独自の世界であり、現代の感覚では僻地と考えられるところでも、以前には思いがけず遠いところと交流をもち、多くの人が往来、移住した例は多いし、逆に「京に田舎あり」ということも事実として存在した。辺境や山間の村がいつも後進・僻地でないと気がすまないのは、現代の都会人の思いあがりによる錯覚である。民族社会内部での文化の交流と発展は、求心的方向だけでなく、遠心的方向でも働いていた。
この近世から明治近代への変動は、いわば「面」の社会から「層」の社会、上下に多層化された面の社会へのそれと考えられよう。領国ごとに一つの面をなしていた封建時代の仕切りは除かれた。
国家神道こそはまさしく現代のタブーである。
もともと死者の霊魂は肉体から遊離したのち、一定の期間は生前の個性を保持するが、その後はしだいに個性を失い、それとともに穢れを去って浄化し、祖先の霊としかよびようのない漠然とした没個性的なものに習合してしまう。そしてこうした祖先霊は、子孫の生活を守るという意味で一種の神性としての性格をもち、年間の定められた時期に子孫のもとを訪れ、祭りをうけるというのが本来の形であった。いつまでも個人を記憶し、墓碑を建ててながく供養しようとするふうは、民間では近世になってようやくはじまったものである。
われわれは山村というと、つねに社会文化の発展に遅れた後進地とみなし、そこに伝承されている習俗はすべて古風を残すものと考えやすい。けれども、これは現在の常識を無反省に過去に投影するものであって、はなはだ危険な態度である。近代以前にあっては、山間の村落でも平地に負けないほど人の往来があり、手工業原料を山野で採集したり生産して、貨幣の流通も平地に負けないくらいであった。平地の村と山の村との落差が顕著になったのは近世以降のことで、近代になってそれが決定的なものになった。
柳田氏のこのような意見は、もはや民俗の客観的な解明であるよりも、明治の家父長制をよしとする、官僚的な保守主義者の個人的心情の表明であり、しかもこのような心情が『先祖の話』を内容的にも支配していると考えられるのである。
津田説は、民間信仰を直接に問題にしたものでなく、記紀など朝廷の文献、神道学者の書物を検討して立論されたものであるけれども、人を神に祭ることは日本の古来の風習ではなく、たとえ特定の英雄を神として祭ることはあっても祖先を神として祭ることはなく、そういう説はたかだか江戸時代の神道家によって作られたにすぎぬという。
津田氏はこの神の観念、神社の起源を自然崇拝にみようとしている──津田氏の解釈では、氏神は祖先が祭ったものであって、祖先である人を祭ったものではない──といえるが、むしろこれが日本の神道研究者の通説であって、柳田氏の祖霊説は独自の少数意見なのである。
生と死とは連続的であり、この世とあの世とは親しくあい通じている。肉体は穢らわしい形骸にすぎず、死によって肉体から解放された霊魂は、一定期間を過ぎると、個性を洗い流されて抽象化された一般霊、祖霊となり、年間定期に祭られるために子孫のもとを訪れる。私たちの先祖は人間の生死を大体このように考えていた。
ギリシアで、厳密な意味の霊魂不死の思想は、まったくトラキア地方のディオニソス崇拝における神秘的体験によって成立したといわれる。エクスタシーの状態で神との合一、神がかりを体験した以上、霊魂は本性上神的実在であり、それは肉体から独立し対立する原理と信じられたのである。
ギリシアにおいても民衆的宗教は、なによりも祭りを意味し、国家的ないし民族的な年中行事を意味したが、それが私的生活に立ちいった場合でも主として伝承・習俗を意味するにすぎなかった。生の革新、内面的転回の宗教をはじめて主張し、はじめて実行したのがオルフィク教徒である。
ラフカディオ・ハーンが、死者の支配、家父長制、祖先崇拝など日本の古い民俗の中に、彼の母方の母国ギリシアの古代宗教への思慕を投影させたことは、よく知られているが、日本のみが近代までそのような観念をほぼ原型のままに維持し、個人の魂の救済と祖先崇拝とを両立させてきた特異な国なのであった。ヨーロッパはやがてキリスト教の霊魂観で洗礼されなければならない。
ギリシア人にとって、時間を超え解脱にいたる自己はもはや個性をもった自己ではない。それは神的知性として、没個性、超個性的なものである。ところがキリスト教ではそうではない。キリスト教において、個々の霊魂が死後、ギリシア哲学的な普遍的霊魂、知性へ帰一すると説く者は、異端としてきびしく斥けられる。なぜなら、この説を認めれば死とともに人間の罪は消え、最後の審判は無意味になってしまうからである。霊魂はそれぞれの個性を帯びたまま最後の審判を待つ。
禅の語録における坐禅関係と葬祭関係のページ数の比重は、臨済・曹洞いずれも一三世紀前半にはほとんど一〇〇パーセントが坐禅に関してであったものが、一四世紀には葬祭へと逆転し、曹洞では一五世紀にはほとんど一〇〇パーセント葬祭宗教化している。
近世以後の世界は「分裂」をもってその特徴としている。第一には、諸民族の政治的分裂。各国家の内部においては、封建的割拠から中央集権的統一へと進んだが、世界の普遍的統一ということからいえば、中世世界から近世以後の世界へは、いわゆる近世国家の分立、そしてさらに現代にみられるそれら先進国家の各植民地の独立によって、いぜんとして政治的中心の分立こそ近世以後の世界を特徴づけるものである。第二には人間と自然との交渉がもっぱら技術的なものとなり、両者の間にするどい分裂と対立が生まれている。
宗教と科学との関係は、カトリック教会の教理と科学的真理との矛盾の問題として、したがってガリレイの審問と受難の典型的な例におけるごとき、教会による科学者の迫害の歴史として、もっぱら論じられる。しかし、近世科学の成立の地盤そのものに一種の宗教的精神が内在していたことが、むしろ重視されなければならない。近世科学は、いわゆるルネッサンスの人文主義(ヒューマニズム)の中からけっして成立しえたものではなかった。そして問題を原理的に考えるかぎり、今日においても事態は同じはずなのである。
自然にアニマや意志はなく、それはもっぱら人間のみの性質であると考える態度が現われるまでは、自然にたいする科学的技術的な態度は不可能である。アニマを追放することによって自然は客観的法則的になる。したがって、アニミズムや多神教が一神教のキリスト教によって追い払われた西ヨーロッパにまず科学的自然観が成立したことは、けっして偶然ではなかった。
すでに原始宗教についてフレーザーが、呪術における失敗が宗教の生まれた理由とみなしているように、自然からの呪術性の排除が科学的自然の成立であったように、呪術の自己中心性の否定が宗教を誕生させたのである。