悲劇の誕生/ニーチェ 秋山英夫訳


しかし、まことに暗い風景としていま描き出したばかりのわれわれの疲れ果てた文化の荒涼とした風景も、ディオニュソスの魔力がそれに触れるとき、とつぜんその姿を変えることはどうだろう!一陣の突風は、あらゆる老衰したもの・朽ち果てたもの・破れたもの・しなびたものを引っつかみ、渦をまきながら赤い砂塵の雲のなかにつつんで、禿鷹のように大空たかくはこび去ってしまうのだ。茫然としてわれわれの目は消えうせたものを追い求める。なぜなら、われわれの目にうつるものは、まるで谷底から金色の光の面にうかびあがってきたもののように見えるではないか!充実として青々としており、あふれるばかりに生き生きとしており、あこがれにみちみちて無限であるではないか!

理論的人間も眼前のものに限りない楽しみをいだく人間であることは芸術家とかわらない。そしてこの楽しみのおかげで、ペシミズムの実践的倫理にはまりこむことなく、暗闇でしか光らないようなペシミズムのリュンケウスの目から守られていることも、芸術家同様である。ところで眼前のものを愉しむといっても、芸術家は真理の女神のまとっているヴェールを一枚一枚はぎ取りながらも、いくらはぎ取ってもやはりヴェールにおおわれている女神の姿そのものに、うっとりとしたまなざしを向けて見惚れているのに対して、理論的人間のほうは、投げすてられたヴェールに楽しみを感じ、満足しているのであって、その最高の快感の目標は、自分の力でヴェールをうまくはぎ取ってみせるというその過程そのものにあるのである。

笑う者のこの冠、バラの花輪のこの冠、わたしはこの冠を、わたしの兄弟である君たちに投げあたえる!笑うことを、わたしは神聖だと宣言した。君たち、より高い人間よ、私から学べ――笑うことを!

「見渡すかぎりはてもなく、山なす波が咆哮しながら起伏する荒れ狂う海の上で、舟人がか弱い小舟に身を託して坐っているように、個々の人間は苦患の世界のただ中に、個体化の原理を支えとし、これに信頼をおいて、平然と坐っているのである。」意志と表象としての世界

彫刻家およびこれと同系統の叙事詩人は、さまざまの姿かたちを純粋に見るということに没頭する。ところがディオニュソス的音楽家はどんな形象をも持たない。そして完全に自分自身が根源的苦痛であり、この苦痛の根源的反響なのである。抒情的天才は、自己を放棄して合一するというあの神秘的状態から、彫刻家や抒情詩人の世界とは全然別な色彩・因果関係・速度を持った、一つの象徴的比喩的世界が生い立ってくるのを感じる。……抒情詩人の形象は彼自身に他ならない。それはいわば自分自身のいろいろ違った客観化にすぎない。

「感覚は私の場合、はじめのうちは一定の明確な対象を持ちません。対象は、あとから始めて形づくられるのです。ある音楽的情緒が先行し、そして私の場合には、これにつづいて始めて詩想が生まれてくるのです。シラー

抒情詩が音楽の精髄に依存していることはいうまでもないが、音楽自体は完全にそれだけで一本立ちできるのであるから、形象や概念を必要とすることは決してなく、ただそういう概念的なものを多めに見てがまんするだけだという点である。

抒情詩人が音楽をきいたときに、どうしても何か比喩的に形象や概念でものを言いたくなるにしても、彼の作品である詩は、もともと音楽のうちに絶対に普遍妥当的なものとして存在しなかったようなものは、何ひとつ表現できるものではないのだ。まさに以上のような理由から、音楽が世界の本体を象徴するその仕方は、言葉なんかではとうてい十分に言いつくすことはできないのである。なぜなら音楽というものは、根源的一者の胸のうちにある根源の矛盾と苦痛を象徴的にあらわしているものなのであり、従って、いっさいの現象を越え、いっさいの現象以前に存在する領域を象徴するものだからだ。音楽とつきあわせてみれば、むしろどんな現象も比喩にすぎない。従って、現象の器官であり象徴である言葉なんかは、たとえとんぼがえりをしたところで、音楽の一番奥の内部を外にひっくりかえしてわれわれにわからせることはできぬのであり、音楽を模倣しようとのさばり出ても、つねに音楽の表面をかすめる程度にすぎないのである。抒情詩がどんなに能弁にしゃべりたてても、音楽の最も深い意味に至っては、ただの一歩もわれわれに近づけられることはないのである。



民族の価値は――ひとりの人間にしてもそうだが――自分の体験に永遠者の刻印を押す能力に応じて、ほかならぬこのことだけで、きまってくるのである。なぜなら、そのことによって、民族はいわば世俗の世界を脱却してしまうからであり、時間が相対的であって、人生には真の意味、すなわち形而上学的な意味があるという、その無意識的な内面の確信を示すことになるからだ。しかし民族が自分を歴史的に理解し初め、自分のまわりの神話的要塞を破壊しはじめると、その反対のことが起こってくる。神話の破壊には、民族の以前の状態を導いてきた無意識的な形而上学との決裂がつきものであり、あらゆる倫理的帰結において、決定的な世俗化が起こってくるのが普通だからである。

どのような文化も、神話を欠く場合、その健全な創造的自然力を失うのであって、われわれの視野が神話で限られている場合に初めて、文化の動き全体が一つの統一体にまとまるのである。空想とアポロ的夢幻のいっさいの力も、神話によって初めて無選択な彷徨から救われる。神話の諸形象が、気づかれないが、至るところに存在する魔神的な見張人になっていて初めて、その保護のものとに若い魂は成長し、その合図によって成年者は自分の人生と戦いの意味を解くのである。国家でさえも、神話的基礎以上に強力な不文律を知らない。神話的基礎こそ、国家が宗教と関連を持つこと、国家が神話的表象の中から成長してきたことを裏付けるものなのだ。

これまでは美的聴衆のかわりに、半ば道徳的な、半ば学者的な要求をもった奇妙な場違いの連中、「批評家」というしろものが劇場に坐っているのが常だった。彼らの従来の縄張りでは、なにもかも技巧的で、ただ見かけの生命で塗りつぶされているだけだった。こういう批評的な素ぶりを見せる聴衆に対しては、演技者も実際、どうしたらよいか分からず、そこで彼に霊感を与えてくれる劇作家やオペラ作曲者ともども、この注文の多いくせに不毛な、鑑賞能力のさっぱりない手合いに、生命のかけらでも残っていはしないかと、不安げにさぐるしまつだった。

悲劇におけるアポロ的なものとディオニュソス的なものとのむずかしい関係は、実際のところ、二柱の神の兄弟のちぎりによって象徴されるだろう。すなわち、ディオニュソスはアポロの言葉を語り、アポロも最後にはディオニュソスの言葉を語るのである。悲劇並びに芸術一般の最高の目標は、こうして達成されたわけである。